アメリカは国じゃなかった?19世紀アメリカ社会の特徴は?

アメリカは国じゃなかった?19世紀アメリカ社会の特徴は?

この記事では19世紀のアメリカは国ではなかったというお話をしたいと思います。は?という感じでしょうが、まあまあ少し聞いていってよ。

19世紀アメリカには国家機構や行政機関が存在しませんでした。そのため当時はアメリカは国らしくありませんでした。どうしてそうなったのか?なぜ今のようにたくさんの行政機関が作られるようになったのか?詳しく解説します。

行政国家の発達の遅れとその要因

まずアメリカはなぜ行政国家にならなかったのかの要因を考えます。

19世紀アメリカでは行政機関の存在感が全くと言っていいほどありませんでした。これは他の先進国と比べて例外的なことでした。その理由は主に2つあると考えられています。

官僚機構の発達と民主化のタイミング

1つ目の理由が官僚制の発達のタイミングが他の先進国と異なっていたからというもの。官僚機構は基本的に民主制が成立する前に発達するのが基本です。イギリスでもフランスでも君主制を支えるために官僚機構が発達していました。

しかしアメリカではこれは当てはまりません。

植民地時代は本国から送られた総督が統治するシステム。しかし総督の命令を実行に移す官僚機構は存在しませんでした。自律的な市民社会が存在していたからです。総督は官僚を通じて支配する必要もなく、統治する手段も持っていませんでした。

しかも独立戦争を通じて出来上がった国は共和制を目指す国でした。共和制において原理的には官僚制は存在し得ません。共和政は君主制を否定するための政体だからです。君主制が否定されれば君主制を支える官僚機構も否定されてしかるべき。しかも早くから民主制が発達したアメリカの中では選挙を通じて選出されない官僚の存在を政治的に正当化することが困難でもありました。

行政に対する憲法・コモンローの考え方

二つ目の理由が行政に対して憲法上の権利が明白になっていないからというもの。アメリカにおける三権分立とは立法権、執行権、司法権の三権が互いにチェック&バランスを取るシステムです。

そのため憲法上では行政権の立ち位置が明示的に定められていません。行政権に似た執行権は憲法上大統領個人に与えられるものなので特定の行政機関に対しては権力が認められていないのです。

コモンローにおける「法の支配」が求められたことも行政機関が発達しない要因でした。コモンローの原則の下では裁判所のみが法律に書き込まれている文言を解釈し、個別の事象に適用することができます。裁判所は厳格な手続きと裁判などの当事者による議論の余地がある場所だからです。

一方の行政機関は同じく法律を扱う立場であるものの簡略な手続きで物事を進める傾向にあります。これがコモンローの観点からはなかなか許容し難いのです。

そのためコモンローと法の支配原則の下では行政機関が立法権を担うことが否定されたため行政機関の行動範囲が必然的に狭くなり発達が遅れていきました。

19世紀アメリカの国家機構の特徴

ここでは19世紀アメリカの国家機構がどのような特徴を持っていたのかについて確認します。

立法国家

19世紀アメリカで行政機関が発達しなかった背景には議会主導の国家運営がなされていたことがありました。現在でも議会の権限は大きく予算や法案の作成、宣戦布告などは議会だけが可能な領域になっています。

議会の大きな権限に比べ大統領は非常に小さな権限しか与えられず、ただの事務方のトップと言われるほどでした。

権力が小さいために現職大統領が公の場所に出てくる場面はほとんどありませんでした。現在では恒例になった議会での年次教書演説も19世紀からは大統領が教書を議会に送付するだけの簡素なものになりました。

共和主義の観点からも大統領の権力は非常に抑制されていました。大統領選を通じて候補者が自ら権力を求めて立候補することは避けられるべきと考えられていたからです。共和主義で権力を求めることは最も徳がない行動だとされました。

19世紀のアメリカ大統領は初代ワシントンに代表されるように党派を超えた尊厳ある主体として考えられていました。そのため選挙戦も対立バチバチではなく抑制的なものでした。

19世紀の大統領候補は現在のような選挙演説をすることなく自らの支援者が自宅を訪問した時に庭などから手を振るくらいしか許されませんでした。しかも大統領選以外の選挙でも自らの党の候補を応援することも許されませんでした。

大統領の権限の弱さは選出方法にも関係しています。ジャクソン以前の大統領候補は連邦議会の総会で選ばれていました。しかし民主党と共和党の二大政党制が確立すると大統領候補は全国各地から派遣されてきた代議員による総会で選ばれるようになりました。

そのため大統領候補として選ばれるには地域や派閥の壁を超えた幅広い人々に支持されなくてはなりません。そのため人気ある有力政治家はアンチも多く、大統領候補になることができませんでした。結果、無難な無名政治家が大統領候補になるケースが増加し、大統領の求心力が低下する要因となりました。

確かに大統領は人事権を一手に担いましたが、選挙戦運営を各地方の組織に頼るため人事権を行使する際には各地方に配慮する必要がありました。まとめると求心力のない政治家が大統領として当選するケースが多く、当選しても各方面に配慮が必要でその権限をフルに使うことはできませんでした。

「国家らしくない」国家

連邦政府の役割が小さかったのも行政機関の発展が遅れた大きな要因でした。連邦政府の機能は限定されており、公有地の管理などが主な仕事。重要な仕事ではありますが仕事の量としては現在の比にならないくらい小さなものです。

建国時は3省しかなかった行政機構はそれぞれ規模が小さく、ポストも猟官制と呼ばれる政治任用システムだったためコロコロ人事が入れ替わりました。そのため官僚は任期が短く専門性が全く身につきませんでした。

これは非常に困ったことです。特に外交面で大きな困難をもたらしました。外務官僚が世界標準の外交儀礼を理解しておらず、言語面でも弱さを露呈したからです。

しかしガーフィールド大統領暗殺事件によって猟官制のデメリットが明らかになります。人事ポストが与えられないことを逆恨みした者が大統領に銃を向けたのです。

政治任用の怖さと官僚の専門性の欠如の解決するため、1883年にpendeleton法が成立しました。これにより法律上は実力主義の官僚任用が可能となり、徐々に官僚に専門性が身に付けられていきました。

しかし、pendeleton法が成立した後も官僚の政治任用は続き、本格的にメリットシステムに移行したのは50年後でした。

アメリカで行政機構が発達しなかった背景にはアメリカには戦争が不足していたからとの見方もあります。国家機構を成長させるのは戦争です。戦時の複雑で大量な事務処理が各行政機関を成長させると一般に考えられていたからです。

しかしアメリカは行政機構を大きく発達させるような戦争を経験してきませんでした。帝国主義的な進出のきっかけになった米西戦争まで国内を揺るがす戦争は南北戦争くらいしかなかったからです。

先住民との戦争や米墨戦争も国家的な危機ではなく、敵が存在しない状態が長く続きました。そのため行政機関が国力を高める必要がありませんでした。アメリカは確かに「国家らしくない国家」だったのです。

「裁判所と政党からなる国家」から行政国家へ

ここで湧き上がるのはなぜ行政機関が発達しない中でアメリカの秩序維持が可能だったのかというもの。ここでは連邦制と裁判所、政党に注目します。

連邦制

連邦制の役割は秩序維持の点からは限定的ではあったものの重要なものでした。連邦政府は自らが持っている権限や資金を分配することで自らがやりたいことを実現するのを促すことができました。つまり分配政策を通じてやりたいことを実現していたと言えます。

連邦政府に代わって民生を担当したのが州政府でした。州政府には社会秩序の維持のための積極的な働きが求められました。現在ほど中央政府の権限が大きくないため各州は知事の指導下で自律的に行動することが可能でした。州・地方政府はアメリカ政治史の中で見逃されがちなアクターですが、重要な役割を担っていたのです。

ネットワーク上の「裁判所と政党からなる国家」

政党と裁判所もアメリカの秩序維持に大きな影響を及ぼしていました。19世紀までのアメリカは中央集権ではなく全国に張り巡らされた政党と裁判所の組織によって維持されていました。

政党は1830年以降全国に組織を張り巡らして、選挙を通じて徹底的に有権者を囲い込んでいました。政党が全国規模で市民の意見を組み上げるシステムを作り上げたため社会が安定化していました。

裁判所も非常に重要な役割を果たしました。裁判所は当時から市民に非常に信頼されていたからです。全国に裁判所があり、すべての裁判所が同じ法規範に基づいて統治していました。

政府が主導して何かを規制するのではなく、被害を被った人が訴訟を通じて権利を回復することで秩序が守られていました。アメリカ社会が訴訟社会と呼ばれるのも納得です。

政党も裁判所もどちらも主導したのが法曹でした。法律という社会のルールに関するプロが社会の秩序を担うことで社会的な安定が守られていたことになります。

行政国家への道

しかしアメリカでいつまで経っても行政機構が発達しなかったわけではありません。19世紀後半になると社会の問題が複雑化し、専門的な知識を持ったスタッフでなければ太刀打ちすることができなくなりました。

専門知識が政策作成や政策執行のために利用される必要に迫られると必然的に裁判を通じた政策執行に限界が生まれるようになります。

この時期には移動手段が発達し電話などの電信技術も発達しました。結果、州をまたがる経済活動が激増します。合衆国憲法上、州をまたぐ経済活動をコントロールできるのは連邦政府だけ。

連邦政府は州間をまたぐ規制政策を主導するようになりました。その始まりが1887年に設置された州際通商委員会です。これは既存の行政機関ではなく新しい行政機関が立ち上がった点で非常に画期的な出来事でした。ここでは非常に裁量的な政策執行が可能で、コモンローに配慮しながら行政処分などを執行しました。第四の権力が登場したとも言われ、以降、行政機関が拡大するきっかけと言われています。