ヴェルサイユ条約締結!その後のヨーロッパはどうなった?

ヴェルサイユ条約締結!その後のヨーロッパはどうなった?

この記事ではヴェルサイユ条約後のヨーロッパ世界がどのような方向に進んでいったのかを解説しています。

パリ講和会議で作られようとした第一次世界大戦後の世界秩序がどこへ向かったのか?どうしてすぐに第二次世界大戦へと向かってしまったのか?そこにはドイツをめぐる国際政治のダイナミクスがありました。

戦後欧州秩序形成とその矛盾

「ドイツ問題」をめぐる軋轢

ドイツはヴェルサイユ条約で厳しい戦争責任と賠償問題を課されることになりました。膨大な賠償金とともにアルザス=ロレーヌ地方を割譲し、ラインラントの非武装化が求められました。その結果、フランスは仏独国境に面して「緩衝地帯」を手に入れることになります。

オーストリアをめぐってもドイツは勢力後退を余儀なくされます。1918年、ドイツ共和国の一部として「ドイツ=オーストリア共和国」が成立しました。

連合国の中ではオーストリアと合併した拡大ドイツを好まない声が強く、ヴェルサイユ条約とサンジェルマン条約ではドイツとオーストリアとの「合併」を禁じる条項が加えられました。

これは国内の大きな反発を産むことになります。ドイツ民族は民族自決を実現することができなくなったからです。民族自決を語るドイツ以外の国々も本音では民族自決を実現するのではなく、あくまで勢力均衡の観点から否定しました。

この時、ドイツは我慢するしかありませんでした。

中・東欧新秩序をめぐる諸問題

ここでは西ヨーロッパから目線を変えて中・東欧をめぐる問題を考えてみましょう。中・東欧では第一次世界大戦を通じてドイツ帝国とオスマン帝国、オーストリア帝国が崩壊し、巨大な変化のうねりが押し寄せます。

元々、この地域には多くの民族が大量に住んでいます。これらをバラバラにしたら簡単にロシアやドイツの勢力下となります。

それを防ぐために民族をいくつかくっつけて中規模の国家を作ろうとします。その典型がチェコスロバキアです。マサリク指導の下でチェコスロバキアがオーストリア=ハンガリー帝国からの離脱する形で誕生しました。続いて西バルカンでは多民族国家・ユーゴスラビアが誕生しました。

一方のフランスはドイツに対抗する勢力として、また共産主義の防波堤として、中・東欧諸国との提携へと動きます。

当時、チェコスロバキアとユーゴスラビアは領土を大幅に割譲したハンガリーがのちに復讐戦争を開始することを恐れており、フランスの防衛協力を欲していました。フランスはこの両国にルーマニアを加えた三カ国間に「小協商」を成立させます。

その後フランスが英米との安全保障協定を締結することに挫折した直後の1924年以降にこれらの諸国との提携を緊密化させていき、新しい安全保障システムを構築するに至ります。

なかなか目が届きにくい東欧諸国も第一次世界大戦を通じて激変の時を迎えていたのです。

まとめ

世界に大激変をもたらした第一次世界大戦。その後に作られた国際秩序は結論から言えば機能しませんでした。ドイツにあまりに厳しい内容だったからです。そのドイツからあのヒトラーが生まれてくることは偶然ではないはずです。