大躍進の流れとその意義について丁寧に解説!

大躍進の流れとその意義について丁寧に解説!

この記事では中国で行われた大躍進政策について詳しく解説しています。何万人もの餓死者を出したと言われる大躍進政策はなぜ起こってしまったのか?大躍進の流れとその意義を考察します。

大躍進とは何か?

大躍進を軽くまとめるとこうなる

大躍進とは短期間のうちに工業と農業の生産力を飛躍的に上昇させて貧しい中国を一気に豊かな共産主義へとを仕上げようとした企てのことです。

1957年秋から水利建設運動として始まり、1958年夏から秋にかけて全国的な製鉄運動と人民公社の組織化で最高潮に達し、同年末から1959年夏にかけては一旦減速されたものの同年夏の廬山会議以降再び推進されました。

結果的に1000万人単位での死者(その中には餓死者栄養不足からくる病気で亡くなった人々虐待による死者などが含まれる)を出すという破滅的結果を伴い1961年に収束します。

大躍進の背景にあったもの

大躍進の背景には、20世紀の発展途上国の指導者に共通する「ゆっくり発展してはいられない」という認識がありました。

当時の中国共産党は経済・社会・思想のすべてを掌握しており、共産党主導によって一気に経済開発を進めることができるのではないかと考えたのです。

毛沢東がやるぞ!と音頭を取り、建設に突き進んだわけですが、これにはマルクス主義との倒錯がありました。マルクス主義者は存在から意識を作ります。目の前の物体を認識した上でそこに解釈を加えていくのです。

しかし、大躍進の場合はこの逆でした。意識が存在を作ろうとしてしまったのです。最高指導者のやるぞ!という意識から始まり、存在を作ろうとしたことはマルクス主義と毛沢東が倒錯していたことを示すものでした。

大躍進の起源

社会主義建設への客観的条件が整わない中、毛沢東は「1956年から1967年における全国発展要綱」にてスピード感ある社会主義建設を主張します。

しかし、これに他の指導者は「冒進は慎むべきだ」だとして、毛沢東に諫言します。毛沢東はこれに反発しつつ、一旦は計画を取り下げます。

1957年10月にもう一度「全国発展要綱」を取り上げ、実施を迫ります。毛沢東としては何としてもこの計画を実施に移したかったのでしょう。この時は大躍進に消極的な右派分子が除去されていたこともあり、障壁はありませんでした。大躍進政策への第一歩が実現しました。

スプートニク発射などのソ連が達成した科学技術上の成果も毛沢東に自信を与えました。自らが進む社会主義建設が間違っていないことを確信したのです。毛沢東はロシア革命40周年記念式典で中国は15年でイギリスに追いつくと大見得を切ります。毛沢東は完全に調子に乗っていました。

スターリン批判以降、社会主義陣営各国で生じた支配の正統性原理の変化も大躍進政策に突き進んだ一つの要因であると思われます。スターリン主義による支配は人々の共感を得ることなく、実際に経済を成長させ、人々を満足させることが大切であると考えていたのです。

毛沢東は調子にのると同時に焦ってもいたのです。

大躍進のための政治的地ならし 1958年前半

 毛沢東は大躍進を推し進めるための政治的な環境を整えていきます。この大躍進のための政治的な地ならしが始まったのは1958年前半でした。毛沢東の路線を「冒進」とした批判を排除しようと粛清の波が吹き始めます。

こうして中央だけではなく、地方幹部にも毛沢東の前進主義的な思想が浸透していきました。右傾的な思想は一掃されて、毛沢東への個人崇拝が進んでいきます。

しかし、毛沢東はこの時点では比較的慎重でした。15年でイギリスに追いつくとした目標も「理論上のことであり…」として、その達成が可能かどうかはわからないとしたのです。

慎重姿勢の毛沢東とは対照的に個人崇拝を通じて圧倒的な権力を得た毛沢東への忠誠心を示そうと冷静さを失っていきました。彼らは10年でイギリス、15年でアメリカを追い越すことができると本気で考えていたのです。

冷静さを失った部下に周りを囲まれた毛沢東自身も次第に冷静さを失っていきます。こんな感じです。

高い山よ、われわれはお前に頭を下げさせたいのだ。お前はなおも頭を下げようとしないのか!河の水よ、われわれはお前に道を譲らせたいのだ。お前はなおも道を譲ろうとしないのか!こんな思いを巡らすのは狂気じみているだろうか。そうではない、われわれは狂っていないぞ!

『毛沢東思想万歳』(上)より

まあ狂ってますよね。

熱狂の坩堝 1958年後半

製鉄の熱狂

大躍進政策で鉄鋼生産がうまくいくかどうかは土法高炉次第でした。1958年は1070万トンを目標に掲げつつも全然目標には届きません。

1070万トンは何としても達成しなければなりません。そうして、既存の設備に加えて、全国のあらゆるところに土法高炉を作り、製鉄運動に人々は熱狂します。しかし、作られた鉄は粗悪なものばかりで使いもににはなりませんでした。

人民公社への熱狂

それまで大躍進やるぞといっても、毛沢東なりのユートピアを実現する具体的な方策を思いついたわけではありませんでした。しかし、毛沢東が人民公社を思いつくことで、毛沢東なりのユートピアが構想されます。

毛沢東はその特徴を「一大二公」と表現します。第一に規模が大きいこと、第二に公有制であることです。人民公社こそが中国の共産主義化を実現するための手段だと考えました。

 深耕・密植

毛沢東は深耕・密植も生産増大のために必要なことだと言い出します。これは農業における一大発明だと言い張ったのです。

毛沢東によれば、深耕と密植で生産は倍増するはずでした。しかし、これは非科学的で、中国の土地の性質にも合わない農法でした。

これらの政策の他にも、中国人は「四害」駆除運動や全人民詩歌運動などはたから見ればなんの意味があるのかわからない運動に動員されていました。

このころの中国人は鉄を作り、詩を作り、ネズミとスズメを追いかけ回していました。知性よりも情緒、理性よりも想像力、制度よりも型破り、神秘的なことが求められていました。

 軌道修正 1959年

1958年秋の収穫期、毛沢東はふと立ち止まります。1958年にすでに食料事情が悪くなっていたからです。製鉄運動などで農業労働力が激減し、豊作でも収穫する人間がいなくなっていました。

そのため毛沢東は1959年から大躍進の修正を行います。「糾左運動」の始まりです。

しかし、その軌道修正も儚いものでした。1959年7月2日から8月1日まで、陳西省の廬山で開催された廬山会議で大躍進は抑制されるどころかより激しくなってしまうからです。

廬山会議では彭徳懐による控えめな大躍進批判が行われます。

小ブルジョア的熱狂がわれわれにしばしば極左の誤りを犯させました

この手紙に毛沢東は憤慨します。毛沢東は頭から押さえつけられるとすぐに激昂する性格の持ち主です。大躍進に抑制的になるはずだった毛沢東は手のひらをくるりと返し、「彭徳懐同志を中心とする反党集団の誤りに関する決議」を採択シアにます。

こうして大躍進を抑制する努力はなきものとなり、右翼、日和見主義者に対する弾圧が非常に強いものとなります。廬山会議によって、大躍進はさらにアクセルが踏まれることになったのです。

飢餓拡大の背景 

結論から言えば、第二次世界大戦で亡くなった人々のよりも多くの人間が大躍進政策によって亡くなりました。大躍進政策は人類史上、類例のない失策だったことは間違いありません。

貧しい発展途上国が急速な工業化を目指す際に従わざるを得なかった客観的論理

資本も技術もない中国にとって、急速に工業化するためには農民から搾取し、工業化のための準備をしないといけないと考えていました。

そのために人民公社は存在したのです。人民公社はまさに人民をしぼりあげるための圧搾機に他ならなりませんでした。

貧しい発展途上国は否応無く従わざるを得なかった原理と国際情勢が交差したことによって大躍進政策が行われることになったのです。

大量の農民の農業外労働への動員

鉄鋼生産などのために農村において大部分の男が農作業から引き離されてしまいました。そのため農業は女性が行うことになります。しかし、中国では、女性は滅多に農村に出ることはありません。ノウハウがない女性たちが中国で農業生産を行うことは本当に難しく、食糧事情は悪くなっていきます。

高すぎる生産目標、過大な生産量の申告、過剰な強制買い付け

現状とはかけ離れた生産目標が掲げられましたが、人民公社はそれに従うしかありませんでした。目標に届いたと見せかけ、課題な生産量を申告します。当然。政府は大量の食料買い付けをやめません。下から上がってくる報告が常に豊作を示していたからです。

食糧不足なのに食糧輸出

中国は工業化のために大量の工業設備や機械、技術が必要でした。しかし、中国は当時、西側諸国との交易が制約されていたので、東側諸国から機械類を輸入します。

その結果、深刻な貿易赤字となります。農村から搾り取った食糧を輸出し、なんとか赤字を補填するしかありませんでした。

当然、各地は深刻な食糧不足を被ります。大躍進に最も積極的な省が最も深刻な被害を被うことになったのです。

食糧不足を信じられなかった毛沢東

ここまで状況は切迫しても毛沢東は食糧不足を信じることができませんでした。1959年秋になっても、餓死者情報が中央に穀物隠匿による穀物不足だと考える有様です。

そのため、緊急の食糧支援が必要なのではなく、階級闘争が何より大切なのだと考えるようになり、結果的に農村にはなんの援助もなく、飢餓をさらに拡大させました。

人民解放軍の中にも広がる飢餓浮腫を確認して初めて、毛沢東は飢餓情報を信じ、その重い腰をあげたと言われています。

大躍進の収束

周恩来による「農民人民公社の表面の政策問題に関する緊急指示書簡」(1960年11月3日)によってようやく農村に関する情報が中央に届けられます。

これを受けて農業労働力の確保のために都市住民を強制的に農村に回帰させました。

大躍進は終息へと向かっていきます。どう考えても失敗であった大躍進政策を巡る認識は指導者の間で異なっていきました。議論が別れる中で毛沢東は他の指導者の考え方に我慢ならなくなっていき、文化大革命へと突き進んでいくことになるのです。