中国政治の転換点・1957年の状況とは?

中国政治の転換点・1957年の状況とは?

この記事では中国の政治史の中でも1957年前後の事象に着目していきます。このころに着目するのは1957年前後に中国共産党による支配の様子が大きく変わったからです。どのように変わったのか?なぜ変わったのか?以下で解説していきましょう。

中華人民共和国史の分水嶺:1957年

中華人民共和国の歴史の中で1957年は分水嶺として受け止められています。なぜならばこの時から政府は人々に社会主義への参加を暴力を使ってまで強制するようになったからです。

1957年を境に社会主義に対して温和な方式が破棄され、共産党による一元的な支配が確立します。すでにライバルと言えるような組織が共産党には存在しておらず、全面的に社会に乗り出すことで人々を社会的にも外部でも絶えざる緊張状態に起き、共産党への協力体制を引き出していきます。

1957年こそが分水嶺で、中国の人々は好むと好まざるとに関わらず、共産党政権に取り込まれ、中国が急進的全体主義へと突き進んでいきます。

もう少し詳しく確認してみましょう。

反革命粛清運動と知識人たち

1954年ー1955年にかけていくつもの騒々しい「反革命」あるいは「反党集団」事件の発生が発生します。社会主義の発展に伴って、社会主義に反動的で革新的な考え方が社会の中に充満します。

これに不満を持った共産党は反革命粛清運動を開始します。63万人もの反革命分子を洗い出し、4000人程の自殺者を出したと言われています。

この運動の本質は社会からの反発を未然に防ぐ毛沢東の策略であったと考えられ、社会主義を完成させるためプロセスの一環と考えられています。

テロルの開始

このように反粛正運動を通じて、共産党に反対する人間は少なくなっていました。しかし、共産党は1956年からテロルを開始します。

テロルは公安当局による国民の計画的な逮捕と殺人を狙ったものでした。1956年中に約40万人を逮捕する予定で、これによって革命の勝利を確実にしようとしました。

しかし、先述のように中国共産党への主な抵抗組織はないのにも関わらず、抵抗する力のない人々を殺そうとしているわけです。ここに大きな矛盾がありました。

攻撃対象となったのはやはり知識人でした。手当たり次第に攻撃を受けました。

中国共産党も少しやりすぎた感もあったので、1956年1月に知識分子問題に関する会議を開催して、知識分子の絶対多数が労働階級の一部になったとして、知識人を重視するスタンスを取りますが、その後も攻撃は続けられました。

スターリン批判の衝撃 「神」は「悪魔」だった!?

 フルシチョフ秘密報告「個人崇拝とその結果」

モスクワから中国に予想もしなかった衝撃波がモスクワから届きます。フルシチョフによるスターリン批判です。

フルシチョフによる報告は多くの人にとって、予期せぬものでした。そこにはスターリンが国家と人民に対して行った様々な犯罪が列挙されていました。スターリンは自惚れで誇大妄想癖があり、偏狭で残忍、自己神聖化、時刻の無視などなどもはやただの悪口とも取れるような内容でした。

しかし、この報告書によってスターリンは病的なほど疑い深く、狂った人間と定義され、これまでの「神」は「悪魔」となったのです。この報告の内容はアメリカ国務省によって公開され、全世界の人々に伝わることになります。これは共産党政権への地殻変動へとつながっていきます。

これに対して、中国共産党は一瞬の沈黙の後、見解を示します。論文「プロレタリアート独裁の歴史的経験について」でスターリンの擁護を行ったのです。スターリンを否定することは中国共産党にはできませんでした。スターリンを神格化し、スターリン式の統治を行ってきた中国共産党にとって、スターリンを否定することはそれまでやってきたことを無駄にすることと同義だったからです。

毛沢東からすれば1955年の夏からスターリンと同じような大粛清を行っており、自分もフルシチョフが行ったような批判を部下から受けることを恐れました。

と同時に、共産主義圏の盟主・スターリンがいなくなることで毛沢東は自身が社会主義に関する新しい政治スタイルを確立する機会に恵まれたことをさとります。

そこで提唱されたのが「百花斉放・百家争鳴」モデルでした。

毛沢東による新しい社会主義モデルの探求

「百花斉放・百家争鳴」モデルでは、人々の自由な発言をもたらすことで、各党員の創造性を高めることを目標にしました。

それまでのスターリンが知識人を否定し、徹底的に遠ざけた政治からは対照的な方針です。

「百花斉放・百家争鳴」に加えて、毛沢東は政治的複数主義を取る「民主諸党派との長期共存・相互監督」が有益だとも考えるようになります。

新しい社会主義を作る上で、共産党内の官僚システムでは、柔軟性がなく、共産党からの外側からのチェックや監視が必要であると考えていたのです。

毛沢東のお墨付きを得た知識人たちは反革命分子粛清運動に対する批判を展開していました。知識人たちは1956年末に起きたポーランドのポズナニ暴動にも勢いをもらい、さらに共産党を批判します。

毛沢東は当初の方針通り、知識人の自由な発言を認めていました。党内の官僚主義を克服するには共産党の外からの批判と共産党自身の自己批判の組み合わせが必要であると確信していたからです。

知識人たちは批判だけでなく、反共産党の暴動を起こすまでに至ります。これを受けた毛沢東は、人々が騒ぎを起こす理由が2つあると主張します。その二つの理由とは思想が未熟であるからと党員や官僚たちの間に官僚主義が蔓延っているからというものでした。

騒ぎを起こす知識人に対して毛沢東は説得によって、沈静化を図ります。しかし、この方針は共産党内からの共感は得られず、1957年春ごろから、急速に毛沢東の反官僚主義へのモチベーションはなくなっていきます。

双百から反右派闘争へ

90%以上の高級幹部が双百に反対する中、毛沢東は知識人層への弾圧を開始することになります。

1957年5月には毛沢東の「整風運動に関する指示」によって「双百」の停止と、知識人弾圧が進む方針が提示されました。

毛沢東の本音の部分では、知識人層は批判するだけのめんどくさい奴らであるとの印象は最後まで拭えるものではありませんでした。

知識人層との長期共存にも相互監視にも否定的な指導者に包囲されていた毛沢東にとって、知識人弾圧への回帰は必然であったかもしれません。