中ソ対立の流れとその意義について解説

中ソ対立の流れとその意義について解説

この記事では中ソ対立について解説しています。中ソ対立とは1956年ごろから始まった中国とソ連の対立のことです。この対立はただの2カ国間の対立に止まらず、世界全体に大きな影響を及ぼしました。この中ソ対立の流れとその意義について詳しく解説します。

概要

1950~1960年代の中国はソ連に頼りきりの外交戦略を行なっていました。中国自身はソ連を模倣した国家を作り上げていましたから、ソ連に追従することは当然のことでした。少なくとも表面上では一枚岩であった中ソが対立を始めるのはスターリン批判からです。

それまでスターリン主義を採っていた中国にとって、スターリンが死去するや否や、スターリンを否定したソ連から裏切られたと感じたのです。

1963年に入ると中国はソ連の方針は修正主義だと批判し、ソ連は中国を教条主義と批判しました。以降、20年間、泥沼の批判合戦が続くことにな四月。

スターリン批判を行なったフルシチョフは古典的なマルクス・レーニン主義の修正を試みていましたし。しかし、中国はスターリンレーニン主義からの逸脱だと批判します。

中ソ対立の中で世界の共産党は多くがソ連を支持します。中国支持はアルバニアのみで1カ国に止まります。中ソ論争の中で中国は国際的に孤立します。

最終的に中国とソ連が和解したのはソ連の最高指導者にゴルバチョフが就任して以降となります。

意義

ここでは中ソ対立の意義を確認していきます。まずあげられるのが中ソ論争によって、米ソ冷戦が二極化構造から多極化構造にシフトしていったことです。中国はソ連との対抗関係を築くために、ニクソン訪中を通じて、米中関係を改善させます。米中とソ連が対抗する軸が現れます。

社会主義的国際主義(インターナショナリズム)の挫折したことが看板倒れになったことも中ソ対立の意義です。

中国とソ連は普通の2国関係とは様子が異なります。両国とも国際主義(インターナショナリズム)を国是として掲げていたからです。国際主義とは国境を超えた労働者同士の横の連帯を重視する考え方です。国際主義を掲げることで、中ソは協力体制を取ることが国家の方針だったからです。国をあげて協力しようと言っていた2国が見事に仲違いしてしまったのです。

国際主義についてもう少し詳しくすると、マルクス主義の考え方的には、一つの国家の内部にはブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立があります。そのため労働者階級は祖国がない存在です。

そこで労働者階級は自分が暮らしている国に忠誠を尽くすのではなく、他の国で同様に抑圧されている労働者階級と連帯しようとする動きを「インターナショナリズム」と言うのです。

マルクス主義の見方はブルジョワジーとプロレタリアートは和解できないため、ナショナリズムが言うような「国民」なる概念はまやかしであると主張します。

そのため、他国家の労働者階級との連帯をすべきだとしたのです。中ソ両国の連帯はインターナショナリズムの象徴だと見られていたが、中ソ対立は労働者階級が国境を超えて連帯できないことを示してしまいました。こうして 社会主義の考え方に大きな打撃を受けました。

対立の流れ

 1956年〜 1959年 対立の「原始的蓄積」

中ソ対立の原点はフルシチョフのスターリン批判とされていますが、これは正しくも間違ってもいると言えます。

確かに中国になんの事前相談もなく、フルシチョフがスターリン批判を行なったことに毛沢東は激怒したからです。毛沢東はスターリン批判を行なってしまったフルシチョフを社会主義国を束ねるリーダーとして不適格と認識するようになります。

しかし、このことが直ちにスターリン批判から中ソ対立が始まったとける論づけるのは早計でしょう。中ソの間にはその以前から不満が蓄積していたと考えられるからです。

中国共産党はその結党以来、ソ連共産党に不満を持っていました。国共合作の命令や都市部での蜂起命令などソ連共産党に不満を持つ人々が多くいました。

このように1956年以前、中国共産党はソ連から不当な扱いを受けており、スターリン批判が唯一の中ソ対立だとは言えません。かと言って、中ソ対立の開始日時を特定することは不可能です。中ソ対立は外部から見れば、対立が起こっていることを観察できるものではなかったからです。中ソの間には第三者には見えないところで不満が溜まっていったのです。

1960年〜1962年 間接的論争の時期

この時期になると中ソ対立が認識することが可能になります。お互いがお互いの味方を批判し、自分の味方を擁護しました。中国はユーゴスラビアを批判し、ソ連はアルバニアを批判します。その一方で中国とアルバニアは結託し、ソ連はユーゴスラビアと結託しました。

1963年〜1968年 直接的論争の時期

この時期になると中ソ論争は直接的に言い合いをし始めます。中国もソ連もそれぞれがマルクス・レーニン主義の正統であり、それぞれが異端だと批判します。

中国はプラハの春でソ連が戦車を使ったことに衝撃を受けます。当時のブレジネフはブレジネフ=ドクトリンによってソ連の行動を正当化しました。

ブレジネフ=ドクトリンでは、社会主義共同体の利益は各社会主義国の利益に勝ると考えられ、各国が全体の利益に反する行動をとれば、ソ連は武力を持って、解決することも許容されるとしたのです。

中国はブレジネフ=ドクトリンが中国にも適用されると考え、ソ連の武力侵攻に恐怖を抱き始めます。

こうして中ソ対立は単なる言葉の応酬だけでなく、武力衝突にまで発展します。

 1969年〜1985年 全面衝突の危機

毛沢東は1969年、中ソ国境地帯を流れるウスリー川にある珍宝島(ダマンスキー島)に進撃し、数十人の死者を出しました。

毛沢東の意図はよくわかっていませんが、この侵攻を通じてモスクワの出方を伺ったの可能性があります。こうして中ソは一触即発の状態となり、両国は備蓄品と軍事物質の生産量を増やしていきます。

1970年7月、中国における軍の内部報告書では、米ソのいずれが単独もしくは連合して、中国を攻撃してくる可能性は低いとされましたが、アメリカ次第でソ連は中国を攻撃する可能性があると報告されました。

これを受けて中国はアメリカと連合を組み、ソ連に対抗していこうと考えた。アメリカもベトナム戦争において、中国の協力を仰ぎたいニーズがあり、両国の利害が一致、米中は接近します。

こうして1972年2月、ニクソン訪中が実現します。この米中接近によって中ソ全面戦争の危機は遠のきました。

中ソ論争の焦点

ここでは中ソ論争において、どのような論点が議論され、対立したのかについて確認します、

核時代における戦争と平和

中ソ間には核戦争への認識に違いがありました。ソ連が核戦争が起きればすべてが終わると考え、世界は滅亡すると考えていました。

しかし、毛沢東は核戦争によって滅びるのは資本主義だけだと考えて、戦争の廃墟の上に新しい文明を再建すると考えた。

ソ連は毛沢東の考え方は正気ではないと認識していました。毛沢東としても政治的な計算があり、わざとそんなことを言っていたと考えられています。

というのも、毛沢東は人民に対して、核兵器を持つアメリカには叶わないと思わせないために、核兵器の実力を過小評価していたように見せていた可能性があるからです。それを裏付けるように、1964年10月に最初の核実験に成功し、核兵器を軽視していたわけではないのです。

平和共存

中ソ間の核戦争への認識の差が平和構築への認識の差をもたらします。ソ連は核戦争は人類の終わりを意味するため、社会主義も資本主義も平和裡に共存しないといけないと主張します。

一方の中国は平和共存自体には反対しないものの、帝国主義はその本質からして、戦争を行うため、平和共存は戦争を遅らせるための戦術に過ぎず、戦争を行う準備を怠ってはいけないと主張しました。

社会主義への平和的移行 

社会主義に平和的に移行することに対して、ソ連は現実的にありえるし、徐々に拡大していると主張します。一方の中国は現実的にはありえないと主張し、労働者階級に幻想を抱かせ、彼らから革命的先頭精神を奪うことに他ならないので、平和的移行を提唱してはいけないとした。

社会主義段階での階級闘争

階級闘争に関する認識にも差がありました。フルシチョフは第21回ソ連共産党大会にて、ソ連が全人民の国家になったと宣言します。ソ連共産党としては、もはや階級闘争などありえないと主張します。 

一方の中国は毛沢東の「継続革命論」にて、共産主義に移行するまで(社会主義段階)は資本家階層は何度打倒しても復活するから、共産主義が完成するまで、階級闘争はなくならないと主張しました。

対立の諸要因

中国はブルジョワジーと帝国主義に対して、非常に好戦的な一方で、ソ連はブルジョワジーと帝国主義に対して、融和的な姿勢を取っていました。なぜこのような見解の違いが現れたのでしょうか。ここでは中ソ対立の対立の要因を検討します。

核時代の到来とマルクス・レーニン主義の古典的諸命題

核兵器の時代が登場することで、従来のマルクス・レーニン主義を見直す客観的状況が現れます。

従来は社会主義革命を実現するために戦争が必要であると見られていましたが、核兵器が登場したことで、戦争が革命の契機になるのかを巡って対立が発生します。

ソ連は核戦争を革命の契機とは考えず、一方の中国は従来の考え方が適用可能だと考えるようになりました。

社会・経済的発展段階の差異

戦争に関する認識の差は中国とソ連の間にある社会・経済的発展段階の差に由来するとも考えられています。

当時のソ連は発展した工業国であり、中国は貧しい農業国でした。ソ連は戦争によって失うものが大きく、中国は失うものが少なかったのです。こうして、中国は好戦的な姿勢になっていきます。

社会主義陣営の中では達成されなかった中国の「夢」

中国共産党は「中国の夢」(=名実と共に世界の大国になること、台湾を国民党から解放すること)を実現するために、帝国主義勢力との対決姿勢を鮮明にする必要がありました。

中国が大きな対外的目標を持っており、その目標を達成するためには社会主義陣営の中で止まっているわけにはいきませんでした。どうしても社会主義に止まっているとソ連に蓋を閉められてしまうからです。中ソ論争を通じて中国は社会主義陣営の内部から逸脱することを狙っていました。

毛沢東とフルシチョフの悪感情

毛沢東もフルシチョフという二人の最高指導者の不和も中ソ対立の大きな要因になりました。

毛沢東はフルシチョフをスターリンよりも格下の指導者として認識していました。一方で、フルシチョフは大躍進政策における人民公社を批判したり、毛沢東の核戦争容認論を批判したりします。

フルシチョフと毛沢東は思想的に相容れないところもあったのです。

関係修復の経緯

中ソの対立関係に変化が現れたのが、ブレジネフによるタシケント演説です。ブレジネフは前提条件なしに、中国との関係改善に意欲を見せます。

鄧小平もそれに呼応して、関係改善に乗り出します。そこで中国側は3つの条件を求めます。

  • 中ソ国境におけるソ連軍撤退
  • ベトナムのカンボジア侵略に対するソ連の援助
  • アフガニスタンへのソ連の武力侵攻を取り除くこと

ことです。この中国の高い要求を経て、中ソ交渉は暗礁に乗り上げます。この時点では中国は本気でソ連と関係を改善させようと考えてはいなかったと考えられます。

1985年開始のゴルバチョフ政権で中ソ関係は改善し始めます。カンボジアの件については明言を避けるものの、アフガンからの部分的撤退、中ソ国境部隊の削減、モンゴル駐留部隊の撤収の用意があると明言します。国境確定問題について、中国の主張を飲むと発言します。

しかし、お互いに根本的な不信感がなくなったとは言えません。核兵器を持つ両国が何千キロにもわたって、国境を接しており、両国関係は機微にあふれたものになっています。