1921年から1949年の中国共産党の歴史について解説!

1921年から1949年の中国共産党の歴史について解説!

この記事では中国共産党の歴史に解説しています。特に扱うのは1921年から1949年までの中華人民共和国成立以前のお話です。

このころの中国共産党はいかにして国内の敵を倒し、国内で権力を確立するかに腐心していました。その流れを確認しつつ、共産党がなぜ今のように強大な力を手に入れるに至ったのかを確認していきましょう。

中国共産党の創建

中国共産党の起源は中国国内ではなく、ロシア革命に導き出すことができます。ロシア革命に衝撃を受けた中国の青年層が中国国内で社会主義運動を開始したのが共産党の源流になっているからです。

この時社会主義運動を開始した人々を共産主義小組と言います。ではなぜこれらの人々はロシア革命に衝撃を受けたのでしょうか。

ロシア革命とはマルクス主義の革命でした。このマルクス主義の考え方は中国人に西洋の観点から西洋を批判する観点を与えました。当時の中国人の知識人たちは西洋寄りの考え方を持っている人が多く、西洋の自己批判としてのマルクス主義に衝撃を受けたのです。

それに加えて、ロシア革命の指導者・レーニンが発表した「帝国主義論」の内容が中国の当時の状況を描いているものとして中国に大きなインパクトを与えました。

帝国主義国によって抑圧されていた中国民族を奮起させる内容だったからです。それらの帝国主義とは異なり、ロシア革命によって成立したソ連はカラ=ハン宣言で中国の権益を放棄するなど中国にとって手を差し伸べるような政策をとりました。ソ連の姿勢は苦しむ中国にとって尊敬に値するものでした。

1919年にソ連共産党は革命を世界に広めるためにモスクワにコミンテルンを設立させます。コミンテルンの支援を受けて、中国共産党は1921年7月23日に上海で成立します。結党大会の時点でメンバーはおよそ50人。人的にも資金面でもコミンテルンに意識していました。

中国共産党が成立するに当たって日本も大きな役割を果たしました。中国共産党の源流となるマルクス主義はヨーロッパから日本への輸入されていました。

当時、多くの中国人の知識人は日本に留学しており、中国人とマルクス主義の接点は日本で作られました。日本で知ったマルクス主義の概念が中国に持ち帰られていきました。

「正統的」段階 1921年〜1927年

結党時の中国共産党に国粋主義者は多くありませんでした。活動家というよりも学者肌の頭でっかちな人が多かったのです。

モスクワから来たコミンテルンのメンバーはこれを見て、中国共産党による全国支配はまず無理だろうと考えました。政治経験もなく軍隊もない一つの小さな知識人集団に過ぎなかったのですから。

そこでロシア人は中国共産党に国民党との合体を考えます。国共合作の始まりです。国民党と手を組み、市民によるブルジョア革命を実現したのちに、共産党が国民党を打倒するプロレタリア革命を実現する算段を立てていたのです。

コミンテルンの権威を振りかざした国共合作のおかげで共産党と国民党の二つの党籍を持つ人が多く現れます。

これによって中国共産党は急速に拡大します。これを警戒した国民党は1927年に袂を分かち合います。

警戒心を強めた国民党は共産党員の弾圧や処刑を始めます。国民党を打倒することによって実現するはずのプロレタリア革命は共産党が国民党の返り討ちにあうことで実現しませんでした。

共産党は国民党に対して反撃などできませんでした。極めて党組織がルーズで弾圧に対して組織的な抵抗ができなかったからです。ここから共産党は路線転換を迫られました。

「農民的」段階 1927年〜1937年

国民党に徹底的に叩きのめされてしまった共産党は都市を離れ、農村に根拠地を作り始めます。さらに強靭な組織を作るために独自の軍隊を作り始めます。「紅軍」の誕生です。紅軍はのちに人民解放軍となる組織です。

国民党と共産党という対立する2つの軍隊が独自の軍隊を持つことになります。これ以降、中国の政治は軍事的なものになっていきます。

共産党が農村に根拠を置くのはマルクス主義の正当な理解からは外れたものでした。生産手段を持っている農民は革命の担い手として信用ならなかったからです。

生産手段を持っていない都市の労働者は革命を起こさざるをえないため革命の主な担い手として想定されていたのです。

共産党が農村にこもるのは理論的にはよくありません。しかし、共産党には選択肢がありませんでした。農村に頼るしか生き残る道がなかったのです。

確かに都市の中で党勢を拡大しようとする動きもありました。「李立三路線」はその代表です。しかしそれらの動きはことごとく失敗します。

一方で農村での党勢拡大は都市のそれと比べてより一層速く進みます。中国共産党と中国の農村は非常に相性がよいことがわかったからです。内部のつながりが薄い中国共産党と農村共同体は鋭く対立することがなかったからです。

農村を中心に拡大した共産党は中華民国の中に新しい国家を誕生させます。それが「中華ソヴィエト臨時共和国」です。国民党はこれに反発し、この共和国を粉砕します。共産党はこれを受けて長征に踏み切ります。

極めて厳しい長征を乗り切って、陝西省に腰を落ち着けた中国共産党は組織的にボロボロでした。長征開始時と比べて兵力は10分の1にまでなっていました。

国民党がここで共産党を叩いていれば共産党は潰れていたでしょう。しかしそうはなりません。国民党には別の相手が登場していました。日本軍です。日本軍によって国民党の勢力は弱まり、共産党は生き残ることができたのです。

日中戦争

国民党にとって、日本軍と共産党という二つの敵を前にして発生したのが「西安事変」です。国民党内部でのクーデターであるこの事件は、国民党指導者・蒋介石に対して軍人たちが日本軍への対抗の集中を促すものでした。

西安事変を契機に抗日民族統一戦線が形成され、第二次国共合作が形成されます。中国は日本との全面戦争に向かっていきます。

盧溝橋事変を皮切りに、日中全面戦争が始まりました。共産党は国民党から軍費をもらって、国民党の指揮下に入り、協力して日本の軍隊を迎え撃っていました。

しかし、良好な関係は長くは続かず、国民党と共産党はしばらくして小競り合いを起こすようになります。結果的に、1941年の皖南事件によって国共合作は有名無実化していきます。

国共合作が崩壊し、内戦状態に向かっていく背景には日本が太平洋戦争に突き進んでいたことがありました。両党は日本軍への対応をアメリカ軍に任せ、戦後の内戦に備えようとしたのです。

中国共産党内部での自分の権力を固めにいった毛沢東の動きを見れば、共産党もまた日米戦の結果を予見しつつ戦後に備えていたことは明らかです。

共産党との対立に明け暮れる国民党を尻目に日本軍は中国への南下を続け、国民党を打ち破っていきます。こうして国民党の支配領域がなくなり、権力の空白域が生まれます。その空白地域に共産党が侵入し、党勢の拡大が可能になりました。

日本との戦争が終了した時、中国共産党は1億人の党員と1万人の軍隊を確保していました。

国共内戦

1945年8月に日中戦争が終了すると、国民党と共産党は日本という共通の敵を失います。米ソ両国は内戦回避を主張し、蒋介石と毛沢東は交渉を行いますが、不調に終わります。

1946年夏から3年余り、国民党と共産党による本格的な内戦が始まります。3ヶ月で蒋介石は共産主義者どもを一掃すると公言します。国民党は兵器の質、量ともに上回っていたからです。

しかし、国民党は共産党の力を甘く見ていました。ゲリラ戦を展開する共産党軍=人民解放軍に対して、国民党軍は対応することができませんでした。

戦略面で国民党軍は時代遅れであったからです。相手の兵力を確実に削っていくことを目的に、人民解放軍は機動力を用いて、一つ一つの部隊を着実に消していきました。純粋に軍事的な要因だけでは両党の内紛を語ることができないのです。

天下分け目の決戦と呼ばれる3つの戦い=遼瀋戦役、淮海戦役、平津戦役に勝利した人民解放軍は完全に戦況を有利なものとして、次々に都市を手中に収めていきます。

内戦の最終段階では毛沢東がスターリンと盛んに意見交換していたことがわかっています。この二人が革命後の国家体制を決定しました。

国共内戦に勝利した共産党は1949年10月1日に中華人民共和国を成立させました。