1949年から1989年の中国共産党の歴史について解説

1949年から1989年の中国共産党の歴史について解説

この記事では1949年から1989年にかけての中国共産党の歴史について解説しています。

中華人民共和国が成立してからの40年間、中国政治の中心であり続けた中国共産党。その統治は順風満帆とは言えないものでした。苦難にあふれた中国現代史を丁寧に解説します。

遠い目標としての社会主義

新しい国家を始めた時、中国が社会主義や共産主義に移行できるのはずっと先のことだと考えられていました。共産主義は資本主義が最も高度に発展した形だと考えられていたからです。

1949年のころの中国は農業が経済の中心でした。建国時の中国にとって社会主義は遠い目標だったのです。

毛沢東もこの状況を受けて、将来、国家の文化と経済が大いに発展し、全国の人民が悠々と適切な形で社会主義に入ることができるだろうと発言していました。

毛沢東は「過渡期の総路線」の中で18年をかけて、社会主義に中国を改造することを表明しました。ソ連の経験に学びながら農業の集団化や工業の国有化を進めようとしたのです。

ちなみにソ連は1921年に経済復興が始まり、社会主義の完成宣言が1937年に発表されました。社会主義の完成に16年かかったことになります。このソ連の経験を下敷きに、中国は1967年ごろには社会主義を完成できるプランを作り出したのです。

しかし、実際には1956年に社会主義化を実現します。当初の予定より10年早く社会主義を完成させてしまいました。なぜでしょうか。ここには毛沢東の心変わりがあったのです。

毛沢東の心変わりと反右派闘争

スターリンの死が毛沢東の心境を変化させました。社会主義陣営の指導者であったスターリンの死は毛沢東にとって目の上のたんこぶがいなくなったことと同じでした。

社会主義陣営で中国が旗振り役として陣営をリードしていこうとしたのです。毛沢東は中国における社会主義建設のテンポを早めて、農業の集団化と商工業の国有化を始めました。

しかし、毛沢東にとってスターリン批判は衝撃的なものでした。スターリン主義の社会主義を目指す中国にとってスターリン批判は自分たちの路線を否定されかねないものだったからです。

毛沢東は中国における社会主義建設はスターリンとは別の路線で進める必要に迫られました。スターリン批判ののちに打ち出されたのが「百花斉放」(文化、芸術の面での隆盛を狙う)と「百家争鳴」(学問での隆盛を狙う)の方針でした。

これら二つを合わせて「双百」と言います。双百によって毛沢東は知識人の発言を促そうとしました。この背景には、スターリンが知識人を批判し、抹殺したことが失敗であったとの評価がありました。

毛沢東としては、すでに階級闘争は終了し、経済建設の時代に入ったと評価していました。経済建設にはどうしても知識人の力が必要であるため、双百による知識人保護が必要だと考えたのです。

しかし、これらの方針には共産党内で賛同者が現れませんでした。双百は不徹底に終わります。これを受けて、1957年には知識人たちが共産党への批判を開始し、毛沢東はこれを弾圧します。

1957年は中国共産党の社会主義化に対する分水嶺になったと考えられます。それまでのゆっくりとした社会主義建設の穏健路線が一気に社会主義に向かって一気に進んでいこうとするラディカリズムに変化したからです。

その変化のきっかけが双百から反右派闘争の流れでした。社会主義に賛同しない人間を体制の中にどのように取り込むのかについての方策も変化したからです。教育と説得という方策から、57年以降は社会主義に従わない人は無理やり社会主義体制に取り込むようになりました。中国共産党は自らの一党独裁体制に反対派も無理やり押し込めようとしたのです。

この反右派闘争を経て、毛沢東は壮大な思い違いをしてしまいます。その思い違いとは中国社会には活気が満ち溢れていると考えてしまったことです。

実際は、反右派闘争が始まり、誰もが反右派のレッテルを張られることを恐れたため、民衆は共産党の方針に迎合するようになっただけだったのです。毛沢東はこの迎合ぶりを勘違いして、中国人の中に共産主義への大いなる意気込みがあると思ってしまったのです。

1956年の秋、中国共産党は中国における社会主義の建設完成を宣言しました。しかし、社会主義建設スピードが速すぎて、社会的矛盾が生まれてしまいました。

毛沢東はそれらの批判を受け止めず、建設スピードを落とすことはありませんでした。そこには社会主義路線が成功していることへの確信がありました。ソ連によるICBMの実験成功、スプートニク実験成功などが追い風となっていたからです。

次なる悲劇 大躍進

毛沢東はロシア革命40周年式典に出席します。そこで毛沢東はソ連が生産物生産においてアメリカに追いつき、中国はイギリスの鉄鋼レベルに追いつき、追い越すであろうと発表しました。毛沢東は調子に乗っていたのです。

北京に意気揚々と帰ってきた毛沢東に諫言する者はいませんでした。誰も控えめな経済計画を提言することができなかったのです。毛沢東の猪突猛進に対する歯止めが効かなくなってしました。
1958年からさらなる社会主義化を目指して、大躍進政策がスタートします。これが戦慄するような悲劇をもたらすことになるのです。

大躍進とは毛沢東の号令で始まった一大増産運動のことです。ごく短期間のうちに農工業の生産量をあげ、中国を後進農業国から優れた生産国への変貌させることを目標に掲げました。

大躍進政策の柱は主に二つあり、大煉鋼鉄と人民公社です。

大煉鋼鉄運動

中国共産党は1958年度の鉄鋼生産の目標数値を620万トンから1070万トンへと上方修正します。中国国民の多くが都市と農村のあらゆるところに溶鉱炉が建設し、そこに身の回りの鉄を入れまくって、鉄づくりに熱中します。

しかし、そうして作られた鉄は品質が悪くて使い物にならない上、農民も多くが鉄づくりに熱中したため、人手不足によって農業も大きな打撃を受けました。

人民公社

農村における組織で、労働力と資金を集中し管理するために従来の組織=合作社を合併することによって効率的な生産運動を目指しました。

人民公社は非常に大きな組織となり、次第に単なる農業生産のための組織だけではなくなります。多くの社会インフラを提供し、軍事力も持つようになります。

人民公社化は農業へのダメージをもたらします。3000万人とも3500万人とも言われる餓死者が出ることになりました。

大躍進政策は事実上放棄され、失敗に終わりました。しかし、大躍進政策は毛沢東の政治的な判断ミスのせいなのかは断定が難しいところです。

というのも、中国のような後進農業国が急速に発展するには大躍進のような大衆運動しかなかったのではないかと考えられるからです。

貧しい農民を徹底的に絞り上げて、都市部での工業化に資金と労働力を回そうとしたのが大躍進政策であり、毛沢東は現実の中国社会を見誤ることによって、大衆動員方式がベストとの決断をしてしまったのです。

さらなる悲劇ー文化大革命

大躍進で傷ついた社会のために調整政策が行われることになりました。まず人民公社を生産隊へ転換させます。この生産隊は従来の村の単位そのものであり、村単位での経済生産を認めます。このことは農村における格差を認める決断でした。

生産隊への転換の他にも自留地や農村市場も認め、食糧生産は徐々に回復、1970年代には大躍進政策前の水準に戻りました。

しかし、毛沢東はこのような農業の脱集団化は社会主義の道から外れた政策だと考えるようになります。こうして「農村社会主義教育運動」が始まります。農村には富農や反革命分子が隠れており、彼らが大躍進政策の失敗の要因と考えたのです。

劉少奇がこの運動の先頭に立ちます。中国共産党に組織的基盤を持っていた劉少奇が、調整政策の先頭に立つことで大きな権威を持つようになります。すでに党内でナンバーツーのポジションにいた劉少奇は毛沢東の後継者としての地位を確立しかけていました。

ちょうどその時、フルシチョフがソ連では失脚します。同じように中国でも指導者がお払い箱になってしまうのではないか。そう考えた毛沢東は、権威を確立しかけていた劉少奇の打倒を決意します。

こうして発生したのが文化大革命です。毛沢東から共産党の頭ごなしに党内の実権派を打倒せよとの命令が出されます。こうして登場したのが紅衛兵です。紅衛兵は非常に暴力的でやりたい放題に社会を混乱させます。

大学の中でも銃撃戦を展開し、毛沢東に反対する人間をつ次々に捕まえ、虐殺していきます。アナーキーとはまさにこのことといった様相です。結果的に100万〜1000万人の死者の発生し、共産党と政府の組織が壊滅しました。

劉少奇や鄧小平は失脚し、江青や林彪の四人組が政治の舞台で台頭します。

しかし、毛沢東にとって文化大革命の動機は劉少奇の打倒だけではありませんでした。大躍進の失敗を誤魔化すために文革をやったのではないかやとにかく毛沢東が革命を続けたかったのではないかといった可能性が提唱されています。

研究者の間でも毛沢東による文化大革命の本当の意図は解明されていません。

改革開放への大転換

文化大革命によって中国共産党に対する国民からの信頼は地に落ちました。国民からの信頼を取り戻すために毛沢東の死後、中国は毛沢東路線を転換し改革開放へと向かっていきます。

毛沢東の死後、最高指導者となったのが華国鋒でした。彼は毛沢東の路線を継承しつつも、その限界性を理解していました。そのため改革開放路線への転換はスムーズなものになります。

1978年12月に第11期三中全会から改革開放が始まりました。この改革開放はプラグマティスト・鄧小平によって推進されます。

農業では脱集団化を進めます。農民の生産意欲増大のために生産責任制を導入し、ノルマ超過分は自分で自由にマーケットに販売することを許可しました。人民公社の時代はいくら生産しても収入は変わらなかったため、生産責任制によって農民の生産性は向上することになります。

都市工業部門でも改革が開始されました。まず企業自主権が拡大されます。これまで企業には何をどのくらい売るのかの決定権が与えられていませんでした。経営上の決定権の権利の大部分を国家から企業に譲渡されました。

これに加えて、開放都市や経済特区を設けて、西側諸国の資本と技術の受け入れを可能にした。こうして、1980年代には文革時とは全く異なる社会になります。わずか10年でGDPは2倍に、一人当たりGDPも倍増します。

その一方で、貧富の格差が都市部、農村部で拡大し、内陸部と沿海地域でも発展度合いに差が出ました。

経済の自由化が進むことで、思想や情報、文化も海外からの影響を受けるようになりました。中国の民衆は単に過去の中国ではなく、外との比較ができるようになりました。

こうして中国国民は先進国とはまだまだ及ばない点があることを知ります。人民の政策ニーズが多様化され、思想が多様化します。

しかし、中国共産党はそのような状況に十分対応することはできませんでした。一党独裁というシステムは本来そのような多様なニーズに対応できない政治システムだからです。

天安門事件ー改革開放の停止

1989年の天安門事件で、改革開放は一旦停止します。天安門事件とソ連崩壊が合間って、中国共産党の内部で改革開放に関する是非が議論されることになったからです。

鄧小平は改革開放の妥当性を強く主張し、改革開放は続けられることになりましたが、共産党による一党独裁を徹底的に固持しながら経済の改革開放だけを進める方針が取られました。

何回かの危機がありましたが、今日までの中国の改革開放はうまくいったと考えられています。しかし、これは内外の条件がたまたまよかっただけで、その成功はたぶんに偶然の要素が大きいと考えられています。