農民との関係が中国共産党に勝利をもたらした

農民との関係が中国共産党に勝利をもたらした

この記事では中国共産党がなぜ中国支配に成長したのかについて解説しています。

非常に広大で多様性に富む中国大陸を支配することは本当に大変なことです。1949年の建国以来、中国共産党はその一党独裁体制を崩していません。なぜこんなことが可能になったのでしょうか?解説していきます。

これまでの考え方

共産党の支配は農村から始まりました。中国革命の核心は共産党との関係にあったと考えられています。中国共産党が農民に入っていたのは1930年代に入ってからでした。

この時、中国共産党の公式な歴史によれば、中国の農民は共産党に対した熱烈で持続的で全面的な支持を与えたとされています。海外の研究者もこの考え方を当たり前のものとして考えていました。

しかし、近年の研究から中国の農民が熱烈に共産党を支持したのではなく、逆に、中国の農民は共産党に対して冷めたその場限りの条件的な支持を与えた評価が下されるようになりました。

ここから一つの疑問が浮かび上がります。なぜ農民から消極的な支持しか獲得できなかった共産党がその後の内戦に勝利し、全国を支配することができたのでしょうか。

以下ではこの問題を考えていきたいと思います。

中国共産党の基本的性質

中国共産党の組織はおよそレーニン主義的な「固い」組織ではありませんでした。党指導部の意図に反して、末端部分ではひどく「ルーズな」組織で、党中央からの締めつけなど存在しませんでした。

そのような「ルーズな」組織であるがゆえに共産党の動員能力はかなりの程度限定されていました。党中央の規律が末端まで行き渡っていなかったのです。

しかし、この組織はルーズであるがゆえに、農民にとって操作可能性が比較的高く、党は農民を取り込みつつ、農民によって取り込まれました。これによって農民との持続的な相互依存関係が生まれました。

党と農民のインターフェイスはともかくも党の支配が永続性を持つことで広く、強固なものとなり得たのです。したがって、イデオロギーや政策よりも軍事的勝利・安全保障がすべての鍵でした。

党組織

中国共産党の組織は外部に対して比較的高い開放性を持っていました。

党規約に定められた入党規則は意味ないものとなっており、縁故関係で芋づる式に入党するケースが多くありました。しかし、芋づる式で入党した人は離党も早く、メンバーの入れ替わりが非常に激しい組織になり、それを形容して「まるで宿屋のようだ」と言われました。

この流動性の高さは党員が国民党によって次々と殺されたこと、粛清の嵐、病気の蔓延なども影響していると言われています。特に感染症による死者は凄まじく、コレラ・チフス・赤痢などが多くの党員の命を奪いました。敵の攻撃よりも病気の方が被害が大きかったとの証言もあるほどです。

党内の流動性が高かったことで、党内コミュニケーションが垂直的にも水平的にも分断されがちでした。そのために党機関が分散孤立しやすく、全体として低い凝集力しか持つことができませんでした。

革命根拠地同士や上海の党本部のコミュニケーションが難しい上に、伝達手段が原始的だったので、共産党は上と下が一体になって動くことが難しくなっていたのです。それに加え、組織の中で情報を共有する重要性が理解されていなかったと思われます。

あまりに組織の流動性が高いために農民と党員の間の価値観や世界観の境界は曖昧でした。こうして出来上がった共産党の組織は当初、党中央が期待していた組織とはまったく異なるものになっていました。

党員の行動についての顕著な傾向として、

  • ミーティングに参加しようとしない
  • 党費を納めようとしない 
  • 敵の攻撃から真っ先に逃げ出す

ことが報告されています。

その中でも特に党費が未納なことは非常に問題でした。共産党の地方組織が非常に財政難であったからです。それを解決するために共産党員は営利誘拐を行いました。

これらのイメージは、一般的に持たれている共産党員の姿とはまったく異なるものです。農村の共産党組織は党中央の核心部分の意図とはまったく違う組織が出来上がってしまいました。

紅軍への動員

共産党が強い組織を作る中で重要だったのが共産党軍=紅軍(人民解放軍の前身)に農民を動員することでした。

しかし、農民は紅軍に積極的に加入しようとしませんでした。むしろありとあらゆる手段を使って、入隊を避けようとしました。兵隊になるなら離婚する!奥さんからそんなことを言われた農民もいたようです。

しかし、共産党としても農民の消極的な姿勢を克服して、共産党もなんとかして紅軍に入党させなければいけません。買収やあからさまな強制を行いました。というのも、党の地方幹部たちにとって最大の関心は上からのノルマを達成することだったからです。

しかし、なんとか入隊させても大量の逃亡兵が発生します。将校や政治委員といった軍幹部からも逃亡者が出てくる有様でした。大量の逃亡兵は革命根拠地の政治的・社会的景観の象徴となりました。

確かに共産党はある程度の資源を農村社会から引き出すことに成功していました。

まず、モデル地区と呼ばれる地区を見本となる町として作り出しました。福建省上抗県才渓郷がその例です。ここでは多くの成人男性が紅軍に参加します。才渓郷を党中央はもてはやしました。

また、地方武力(遊撃隊、少年先鋒隊など)を強制的に紅軍に組み込み、一定の武力を確保しました。

これらのことから二つのことがわかります。強制によってある程度の兵数を確保することが可能であったことと、一時的には熱狂的だが、長く続かずどうにか支配地域を維持しようとする共産党の姿があったことです。

これは広範に湧き上がる熱烈な大衆運動の背に乗って力強く成長する共産党という従来のイメージとはまったく異なるものです。このように1930年代には、共産党はずさんで脆弱な組織でした。そのために、共産党は1949年の勝利を見通すことができませんでした。

では「ルーズな」党組織の勝利という逆説はいかに解けるのでしょうか。

まず考えられるのがルーズであったがゆえに農民と共産党の相互依存関係を作り出すことができたことです。共産党は農村と緊張感をあまり持たず、持ちつ持たれつの関係を作り出しました。このことで農民は個別的に共産党を利用し利益を確保しました。こう考えると農民によって共産党が取り込まれてしまったとも考えられます。

ともかく、共産党は農民との熾烈な闘争を回避しながら農村に根を張ることができました。この背景には儒教を基本にした中国農村社会の市民的な連帯がなかったこともあげられるでしょう。

突如として生じる共産党への支持の「雪崩現象」

その中で共産党への支持の「雪崩現象」が発生したと考えられます。中国共産党は内戦で国民党との戦いに勝利します。このことが農民たちに共産党の支配が永続性があると思わせ、共産党の存在が農民たちにとって安全保障の観点から重要性が増したのです。

中国の人々の「過剰同調」という心理学的な側面と、共産党支持への現世的な利益を鑑みて、共産党支持への「雪崩現象」が発生したと考えられています。

ここまでをまとめると

  • ルーズな党組織
  • 紅軍の勝利による実力の誇示
  • 日和見主義的な農民の打算

この3つの要素が出会ったからこそ、共産党への支持が突然膨れ上がったのではないかと思われます。農村に根を張った時点で共産党の1949年の勝利は運命付けられていたのです。