文化大革命はなぜ始まった?その起源に迫る

文化大革命はなぜ始まった?その起源に迫る

この記事では文化大革命の始まりについて解説しています。文化大革命はなぜ始まったのか?どのような政治的事象なのか?誰が戦ったのか?について答える記事になっています。よろしくお願いします。

レーニンの個人崇拝観

マルクス・レーニン主義の始祖の一人・レーニンは個人崇拝は社会主義にはそこまで個人崇拝は必要ないことだと考えていました。

個人崇拝に対して、

「これは恐ろしいことだ」

「それはどこから来ているのか。我々は全生活をかけて個人を賛美すること一人の人間を持ち上げることと戦ってきた」

「これは全く余計なことであり有害である」

と述べているほどです。しかし、これから述べていく文化大革命では圧倒的でヒステリックなまでの毛沢東個人崇拝が行われるようになります。

文化大革命にはレーニンという社会主義にとって偉大な人物の考えを否定するような動きがあったのです。

なぜここまでになってしまったのか。文化大革命の核心に迫ります。

概要

文化大革命は1966年5月に始まり、1976年10月に終わります。当初、運動は芸術や文化の領域におけるブルジョア思想を排除するという体裁をとりましたが、それはすぐに社会の各領域に紛れ込んだ「ブルジョワジーの手先」を摘発するという大規模な政治運動へと発展していきました。

この時、毛沢東は大衆に向かって「資本主義の道を歩む実権派を打倒せよ」と呼びかけます。これに答えるように紅衛兵という学生からなる暴力集団が現れ、 共産党と政府の指導者、官僚、知識人などを片っ端から襲撃しました。

その一方で紅衛兵に対抗する集団も現れたため、中国各地で市民同士の武力衝突が生じます。激しい内乱となり、生産活動の停滞、政治組織の分断や崩壊、文化人の凋落など中国国内は混乱します。

文革に対する現在の中国共産党の公式見解は1981年6月に出された「 建国以来の等の若干の歴史問題に関する決議」 に示されています。それによれば、

「文化大革命はいかなる意味でも革命や社会進歩とは言えない。…党と国家機構には確かに若干の暗い面が存在しており、もちろん憲法や法律に従って解決する必要があるが、 断じて文化大革命の理論や方法は取るべきではない。文化大革命は指導者が誤って発動し反革命集団に利用され党と国家各民族人民に重大な災害をもたらした内乱であった」

「 建国以来の等の若干の歴史問題に関する決議」

とされ、現在の共産党の見解でも文化大革命には否定的な見解をとっています。と同時に共産党にとって文化大革命はタブーとなっており、現在では文化大革命に関する書籍への締め付けは厳しいものになっています。

文革の政治学的考察

文化大革命を政治学的な概念に分類することはできるのでしょうか。以下ではクーデター・反乱・革命の3つの概念に文革を当てはめることを試みます。

クーデター

クーデターとはすでに政権機構の一部である人々が他の政権の人物に攻撃することによって政権を移動させることをさします。政権集団の顔ぶれには変化があるものの、権力機構の転覆までは至りません。

文化大革命は大衆の力によって起こりかけた政治変動で、政権内部の権力闘争ではありません。文革をクーデターと呼ぶには厳しいものがあります。

反乱

反乱とは一部の人が立ち上がることによって、特定の政策や一部の権力者を打倒することを言います。ポイントは体制の外側から行われることを反乱と呼ぶことです。

文化大革命は体制の中心にいる毛沢東の呼びかけで始まったため、反乱と呼ぶには厳しいものがあります。

革命

革命とはこれまでの政治体制と社会秩序を壊して、新しい社会秩序を作ることを言います。

文革はすでに政治権力の頂点に立っていた毛沢東によって行われ、収束後も毛沢東は政治権力の頂点にいたため、文革を革命と呼ぶことはできないと思われます。

この3つの概念のいずれにも文革は当てはまりません。文革は類型化された概念の中にすんなり当てはめることができる政治概念ではないのです。

文化大革命の特徴

 文革の特徴を簡単にまとめると、

  • 毛沢東という政治構造の頂点から始まったこと
  • 暴力を通じて空前の規模で指導者たちが排除されたこと
  • 空前の規模で大衆が動員され指導者に暴力を振るいまたお互いに戦ったこと
  • 混乱と破壊の後、政治構造の頂点には変化がなかったこと

があげられます。

文革は、拡張ではあったものの、全体主義的な外向きの拡張ではなく、内向きの爆発(implosion)=爆縮、内破ではないかと考えられています。

これは大変珍しい現象で世界史の中に文革の類似事例は存在しません。当時の中国には戦う相手、戦える相手がいなかったため、結果的に後ろ向きに爆縮したのではと考えられています。

文化大革命の背景

ここでは文革の背景にあったものを考察していきます。

文革の背景には大躍進への批判をかわしたい毛沢東の意図があったと言われています。

 調整政策、及び社会主義教育運動における毛沢東と劉少奇らとの亀裂

文革が毛沢東の大躍進政策の失敗への批判をそらすものとして行われたとする考え方です。

毛沢東は大躍進が失敗であったことを認めようとしませんでした。しかし、確実に食糧事情が悪化していた指導者たちは農村の現地指導を行うようになります。

そこでの経験が指導者間の認識に違いをもたらします。1962年の7千人大会で、劉少奇は大躍進の誤りを明らかに指摘します。

毛沢東にとって劉少奇のこの指摘は屈辱的であり、この屈辱を晴らすために文革を起こしたのではないかと考えられています。

毛沢東は鄧小平との対立も深刻化します。鄧小平は、大躍進後の状態を非常事態として、各戸生産請負制を提案し、生産力をあげることに腐心します。これを毛沢東は修正主義だと猛烈に批判したのです。

当時は餓死者が年間3000万人ほどとも言われる本当の緊急事態でした。しかし、毛沢東としては自分の政策でここまでの窮状になったことをどうしても受け入れるわけにはいきませんでした。

そこで、問題の焦点を大躍進の問題から社会主義全体の問題に移すことによって、自分自身を救おうとしていたのではないかと考えられています。

1962年9月に毛沢東は文革の基本的な方針を発表します。これを継続革命論と言います。これによって社会主義革命が実現した後も、継続的に階級闘争を実現しなければならないとしました。この毛沢東の主張に対して劉少奇は批判することができませんでした。毛沢東の考えは党の中で大きな影響力を持つようになりました。

当時の中国共産党には、毛沢東および彼の取り巻きグループ、周恩来グループ、劉少奇、鄧小平、彭真、陳雲らのグループという3つのグループがありました。

その中でも毛沢東と劉少奇の間には君臣関係とも言える関係性があり、劉少奇が暴走を始めた毛沢東を止めることはできませんでした。

それどころか劉少奇が毛沢東にすり寄るようになります。毛沢東に睨まれていることがわかっていたからです。しかし、毛沢東はかえって劉少奇に反発心を抱くようになります。

こうして毛沢東の背中にのって階級闘争を拡大しようとする人々と権力を拡大しようとする人が組み合わさり、毛沢東・暴走列車を引き止められる人は皆無でした。

毛沢東は1963年5月になり、農村社会主義教育運動という新しいキャンペーン運動を開始し、階級闘争を本格化させていきます。

世界における中国の孤立と高まる毛沢東の危機意識

当時の中国がいた環境を毛沢東は悲観的に捉えていました。当時の世界は激動の時代です。60年代にはイリ地区での国境紛争、カシミールでの国境紛争、ベトナムでの国境紛争など中国の周りで紛争が多く発生します。

毛沢東にとって、これらの事件は非常に怖く、恐ろしいものでした。というのも、彼は数々の外患を内憂と結び付けて考えていたからです。外患の勢力が緊密に結びついていて、中国に向かっており、しかも中国の反革命分子とも結びついていると考えていたのです。

必ずしも毛沢東が考えるほど中国を取り巻く環境は悲観すべきものではありませんでした。当時の中国を取り巻いた客観的な環境ではなく、毛沢東の主観的な認識を理解することが大切であると言えます。

 大衆の社会心理

毛沢東の常軌を逸した呼びかけに対して、なぜ何百万人もの民衆が呼応したのでしょうか。当時の大衆の社会心理を検討します。

しかし、これは正確にわかるものではありません。推測に頼るしかないのです。

大衆の中には共産党の幹部の特権、官僚主義的な統治機構への不満が鬱積していたのではないかと考えられています。鬱積していた不満が、毛沢東の階級闘争への呼びかけによって噴出したと思われます。

しかし、文革への反応を呼び起こしたのは不満だけではありませんでした。社会的地位の上昇を狙う攻撃側と既得権益層の防御側、過剰同調の群集心理によって過激な階級闘争が行われたのです。

 文化大革命において攻撃側を構成したのは、非党員、職場での低い地位に甘んじている人々、若者、家庭環境の悪い人々、以前の政治運動で批判を受けた人々などでした。これに大都市からやってきた紅衛兵が加わります。

一方、防御側に回ったのは、党員、職場での幹部、文革以前に積極分子だった人々でした。

文化大革命の始まり 

 姚文元「新編歴史劇『海端の免官』を評す」

この姚文元の評論が広範な論争を巻き起こします。この歴史劇が彭徳懐の復権を狙って書かれたものだと姚文元は論じたからです。

文化革命5人組小組による「二月抵綱」と林彪、江青

共産党としてもこの評論に何らかの態度を示す必要に迫られます。そこで文化革命五人小組による「二月提綱」が示された。これに林彪と江青は不満。毛沢東もこれに同調します。

 「五・一六通知」(1966年5月16日)と中央文化革命小組の成立

「五・一六」通知が一般に文化大革命の発端だったと考えられています。党には各組織にブルジョワ階級が潜んでいるからこれを一掃しなければいけないとた通知によって、文革は本格化するのです。

資本主義への道を進む実権派を妥当することが重要視され、ブルジョワ階級の反動的な学術権威とすべての搾取階級のイデオロギーを批判し教育・文化・学術を改革することが目指されました。

未曾有の混乱をもたらす文化大革命の火蓋が切って落とされたのです。