文化大革命の流れを詳しく解説

文化大革命の流れを詳しく解説

この記事では文化大革命の流れを詳しく解説しています。文化大革命の始まりはわかりづらいものでしたが、紅衛兵の登場によって、一気に混乱が加速します。わかりづらい文革の流れを丁寧に解説していきます。

わかりにくい始まり

学生たちによる造反の開始と大学への工作組の派遣

五・一六通知に最初に反応したのが学生たちでした。学生たちの中には教育内容や格差などから不満が存在したからです。

1966年5月25日には北京大学哲学科の若い講師が大字報を掲げ、毛沢東はそれを賞賛します。

当初、劉少奇は何が起こっているのかが理解できませんでしたが、工作組を大学に派遣します。毛沢東は工作組自体は反対せず。工作組は学生たちに秩序を守ることを指示します。

これに学生が反発し、大学自治は崩壊することになる。

7月18日。毛沢東は突如北京に帰還し、学生運動が鎮圧されたことに対する不満を表明します。これで工作組の解散を命じる。劉少奇はあただただ困惑するばかりで自体についていくことができませんでした。

7月29日。劉少奇が自分が文化大革命の最大の標的であることに気づいていませんでした。彼自身は右派をあぶり出し、彼らを一網打尽にすることばかりを劉少奇は狙っていました。しかし、毛沢東は紅衛兵の活動を促進するばかりです。

第八期十一中全大会における毛沢東と劉少奇、そして林彪

8月1日〜8月12日にかけて開催された会議にて、毛沢東は外部からの圧力を利用して、自分に有利に動かすために、積極的に紅衛兵を焚きつけます。

8月1日。毛沢東は工作組を派遣したことを理由に劉少奇を攻撃しようとします。しかし、他の指導者としても劉少奇を毛沢東に同調して攻撃するわけにはいきませんでした。誰も毛沢東が何を考えているのかは理解できなかったのです。

毛沢東は周恩来に新たな指導者がよいのかを聞き、林彪に白羽の矢が立ちます。と同時に、劉少奇が降格します。文化大革命を遂行するための布陣が整いました。

「プロレタリア文化大革命に関する決定」(通称「十六条」)の採択

毛沢東は指導権をプロレタリアート革命派の手中に取り戻すべきで、それには大衆を大胆に立ち上がらせることが必要であると主張しました。

紅衛兵の暴力

「八月の嵐」

林彪は広場を埋め尽くした紅衛兵に対して、「四旧打破」を掲げ、紅衛兵の暴力が始まります。紅衛兵は至る所で集会と宣伝を行い、資本家や芸術家を殴り殺しまくりました。

この時代、旧世界を思い起こされるすべてのものが破り捨てられます。これを「八月の嵐」と呼びます。法律はまったくもって無力でした。本来なら紅衛兵を取り締まるべき立場の公安部長も

「人々が殴り殺すことには賛成しないが、人々が悪人を心底憎んでいるなら静止しきれないから仕方ない」

と諦めムードです。

「八月紅衛兵」(あるいは「老紅衛兵」)のエリート主義:「出身血統論」

紅衛兵は共産党幹部の師弟が多く、妙なエリート意識をもっていました。その意識が出身血統論と呼ばれる選民思想を作り出します。出身血統論から生まれたのが「紅五類」と「黒五類」の分類でした。

  • 「紅五類」:労働者、農民、 兵士、革命幹部、革命烈士
  • 「黒五類」:旧地主、旧富農、反動分子、悪質分子、右派分子

この分類からわかるように学生が攻撃すべきなのは過去によくない経歴をもっている人たちでした。

しかし、紅衛兵は自分の両親は守ろうとしながら革命を起こそうする姿勢を見せるなど保守的な側面も持っていました。紅衛兵は極端に左であると同時に極端に保守的でもあったのです。この姿勢は毛沢東の考え方から矛盾していました。8月紅衛兵は同年秋以降、批判されることになります。

1966年12月26日、73歳の誕生日に毛沢東は「全国的、全面的内戦の展開を祝して!」と発言し、夏の混乱以上の混乱を狙っていました。

1966年10月の中央工作会議では「ブルジョワ反動路線」批判が展開され、実験派を打倒するための文革派(造反派)が組織されました。

上海「一月革命」と「二月逆流」

1967年1月、上海における造反派による奪権の成功と「上海人民公社」(上海コミューン)の成立

1967年1月、上海における造反派による奪権が成功します。これは毛沢東を喜ばせました。しかし、事態をどのように治めるべきなのかについては混乱がありました。大衆組織の責任者=軍、党、政府機関の幹部の「三結合」に基づく革命委員会によって支配しようとします。

結果的には「上海人民公社」が結成されます。パリ・コミューンの原則に基づいて、選挙によって指導者を選出することが目指されます。

これに対して、毛沢東は反発し、人民解放軍の投入を決意します。軍幹部はこれに対して真っ向から対立します。自分の国民に対して銃を向けることになるからです。

老将軍・葉剣英は毛沢東と激突し、軍事機関に対する攻撃を禁止することが同意されました。第一ラウンドでは軍側が勝利します。

葉剣英、徐向前、 聶栄臻ら軍長老による「二月逆流」

1967年2月11日、毛沢東はもう一度軍の導入を検討します。これに対して葉剣英はブチギレ。1967年2月18日には老将軍に対して毛沢東が逆ギレします。毛沢東と軍の対立は深まりました。

ただし、毛沢東がまったく老将軍に対して聞く耳を持たなかったわけではありません。コミューンという政体は自由な選挙が原則だけれども、選挙をすれば共産党員が選ばれるとは限らないことに毛沢東は批判的だったのです。

軍と造反派の武力衝突の激化

1967年4月1日。毛沢東、中共中央の安徽問題にて、地方での軍事機関への突入を深刻に見すぎていることを指摘します。

これによって造反派は勢いを取り戻し、軍と造反派の衝突が各地で頻発することになります。毛沢東は先が見えないことに業を煮やし、文革の終了を狙います。

武漢「7.20事件」とその余波

事件の概要

武漢においては党委員会の権威がすでに失われ、武漢軍区司令員の陳再道が事実上の指導者として君臨していました。彼は大衆組織である「百万雄師」を味方につけ、造反派の「工人総部」を圧倒していました。

こうした状況のなかで、周恩来、公安部長の謝富治、中央文革小組の王力が7月14日に武漢に入り、次いで毛沢東が秘密裏に専用列車で到着します。毛と周の解決策は、対立する両派の顔を立てたうえで、工人総部の名誉回復と拘束されている人々の解放、および工人総部の百万雄師に対する報復の回避を基本方針とするものでした。

周恩来は陳再道をやっとの事で説得し、自己批判することに同意させ、また謝富治と王力に対しては、上記の方針をしばらく秘密にしておくように言い含めて、北京に戻ります。

ところが謝と王は首相の注意をまったく意に介さなかった。7月18日、彼らは工人総部に出向いて、工人総部は「左派」であるが、百万雄師は「保守派」であると宣言した。

これが対立する両派の争いに油を注ぐことになります。同日20日、怒れる百万雄師の一部の人々は毛沢東が宿泊しているホテルの建物のすぐそばまで突入し、王力を武漢軍区の建物に連れ去ったうえ殴打します。

その後、百万雄師は大規模なデモ行進を行なった。周恩来は北京から取って返し、何もできなかった毛沢東を飛行機で上海に避難させるとともに、両派の調停に奔走。その結果、王力と謝富治は22日に無事、北京に戻ることができました。

事件の余波

毛沢東は「大量に左派を武装させなければならない」と述べる。それによって、造反派は大いに勇気づけられ、軍機関に対する攻撃が顕著に増加した。

混乱の収拾と造反派の大弾圧

中央文革小組メンバー中の「極左派」の放擲、そして捨てられる紅衛兵

こうして文革開始から1年がたち、対立する派を仲直りさせる段階に突入しました。しかし、調停はまったくうまくいきません。

1968年夏。文革は最も混乱した状況となりました。それは毛沢東が望んだ全面内戦でした。

これを受けてようやく毛沢東は本気で幕引きに取り掛かります。人民解放軍の正常化と紅衛兵の武装解除を行うように指示します。

「五・一六兵団を摘発する運動」の開始

今度は造反派が容赦無く弾圧される番となりました。毛沢東は1967年夏、5・16兵団を徹底的に摘発する旨を発表します。しかし、5・16兵団なる組織は実体として存在しませんでした。5・16兵団はただの口実にしか過ぎなかったのです。こうして、造反派の徹底的な弾圧に取り掛かり、少なくとも数十万人が5・16分子として認定され、死傷者が多数出ます。

「階級隊列を整頓する」(中国語では「清理階級隊伍」)運動の開始

1968年には反革命粛清運動と同じように、「階級隊列を整頓する」運動が開始された。こちらも拘束者、死傷者多数。代表的なのが内モンゴル人民党事件です。

「一打三反」運動の開始(1970年)

この運動は党中央の三つの文書、すなわち「反革命の破壊運動に打撃を与えることに関する指示」、「汚職、横領と投機的売買に反対することに関する指示」、「派手な浪費に反対することに関する指示」に基づいていて行われました。造反派を弾圧するための言い訳が必要であったからです。

この時代、走資派として後悔しなかった人間はいませんでした。しかし、文革の始まったころに謳われた「資本主義に走る人々を打倒する」目標はどこかに行ってしまいました。

毛沢東にとって革命を続けること自体が目的であり、大義名分などはどうでもよかったのかもしれません。

結果的に文革が軍人中心で統治され、軍人トップの林彪の権力が強まることも必然だったと言えましょう。

なぜ暴力が過激になったのか?

なぜかくも文革の暴力は凄惨なものになったのでしょうか。様々な理由が考えられます。

  • 暴力を正当化する論理が指導者によって吹き込まれていたから
  • 攻撃の対象は情けをかける人間とは見なされなかったから。
  • 暴力を取り締まる法律がまったく機能していなかったから。
  • プロレタリアート独裁がいかなる制約も受けない権力であるべきだと見なされていたから。
  • 武器が広く社会に拡散されていて、人々があまりに容易に武器を用意することができたから。
  • 文化大革命が始まる以前、すでに多くの人間が死ぬことに人々が慣れていたから。

文化大革命以前に、中国社会は退廃していたと考えられるのです。