文化大革命はいかにして収束したのか?

文化大革命はいかにして収束したのか?

この記事では文化大革命がいかに収束したのかについて解説していきます。未曾有の混乱となった文化大革命がいかに終わりを迎え、中国が再スタートをしていったのでしょうか。詳しく解説します。

九全大会における新たな対立

1969年4月に開催された第9回党大会で壇上から会場を見渡した毛沢東は軍服の人間が多いことに驚きます。このことは文化大革命の中の収束に軍人の役割が大きかったことを如実に示していました。

これにより、軍のトップであった林彪の力が伸び、党規約の中に林彪の功績が示されるまでになりました。しかし、この党大会は毛沢東と林彪の分裂の始まりだったのです。

誰が国家主席となるべきかをめぐる対立

この頃は国家主席である劉少奇の後任を考えるタイミングでした。先例に照らすと林彪が国家主席になると目されていました。

しかし、毛沢東は憲法を改正して、国家主席を廃止すべきとしたのです。これは林彪を後継にしないことを意味します。林彪はこれを受けて、毛沢東が国家主席を兼任することを提案します。林彪なりのヨイショです。毛沢東はこれを拒否し、国家主席後継問題は暗礁に乗り上げました。

憲法改正をめぐる対立

憲法改正会議の場で張春橋などが憲法改正をめぐって対立していました。この会議で毛沢東は張春橋を名指しにはしないものの、党内にマルクス・レーニン主義を発展しないものがいると暗に張春橋を批判します。党内に毛沢東と林彪に反対するものがいると囃し立てたのです。張春橋は失脚することはありませんでしたが、憲法改正をめぐる党内部の争いが本格化していました。

毛沢東による陳白逹攻撃(「非陳整風」運動)の開始

毛沢東は陳白逹の方にも批判の矛先を向けます。毛沢東に対して、批判した陳白逹を目の敵にしたのです。30年間も毛沢東に尽くしてきた陳白逹に対して、政治的終焉を宣告します。

非陳整風運動が始まりました。その矛先は陳白逹だけではなく林彪の部下にまで及びます。倒したい相手の部下を批判することは中国政治ではよくあるパターンでした。林彪の政治的生命は危機に瀕していました。

林彪事件

毛沢東はいつ、なぜ林彪を後継者として不適格と考えるようになったか?

それにしても奇妙なのは毛沢東が自分で林彪を後継に指名した直後に林彪を批判し始めたことです。

毛沢東は林彪をなぜ後継者として不適格だと思い始めたのでしょうか。

考えうる理由を二つあげると、九全大会における軍の影響力の強さにハッと気づいて、軍の影響力を削ぎたかったからと林彪が息子を自分の後を継がせようとしていたことも気がかりだったからという理由です。

しかし、そのいずれも後継者として正式に指名したばかりの林彪を粛清できるほどの理由ではありません。

林立果(林彪の息子)ら「連合艦隊」によるクーデター計画

林彪はもう自分を毛沢東が許すことはないだろうと確信します。

ただ粛清を待つか、毛沢東と戦うか。林彪は後者を選びます。しかし、林彪の部下は粛清の真っ只中で、頼みの綱は林彪の息子、林立果だけでした。

空軍の中で影響力を拡大していた連合艦隊を率いて、林立果は情報を収集し、上海でのクーデター計画を企てます。

林立果はこのように述べています。

B-52=毛沢東が現在の始皇帝になっている。生きるか死ぬかの闘争だ。我々が彼らを食い尽くすか、食い尽くさないかだ!

林彪を追い詰める毛沢東

おそらく毛沢東はその不穏な雰囲気を感じ取っていたのでしょう。毛沢東の林彪批判の言葉はさらに激しくなっていきました。

毛沢東暗殺計画の失敗

林彪はようやく毛沢東を本気で始末する決心をします。①火炎放射器で焼き殺す。②40ミリロケット弾を毛沢東の乗る列車に打ち込む。③毛沢東を直接ピストルで撃ち殺す。の三つの方法が検討されました。

しかし、毛沢東が乗る列車は上海に向かう途中、北京に引き返しました。暗殺計画は失敗します。

林彪は暗殺計画と同時に準備していた広州で党中央の設立を実行します。この試みは広州割拠と呼ばれています。

しかし、林彪の娘が父親の気がおかしくなったと党中央にその情報を伝えてしまい、周恩来は毛沢東とコンタクトを取り、林彪と話をしたいと連絡をとります。

命の危機を悟った林彪はロシアへ逃亡しようとしますが、中国共産党はその旅客機を真剣に守ろうとはしませんでした。林彪が乗る飛行機はモンゴルの草原に墜落、林彪は死亡します。

毛沢東は林彪死亡を聞いて、そこまで喜びませんでした。彼が何を思ったのか。それは毛沢東自身にしかわかりません。

林彪事件の後始末と毛沢東の周恩来に対する不信

林彪をめぐる毛沢東と周恩来の対立

林彪事件について捜査がなされます。捜査の中で林彪への罪状は資本主義を復活させようとした走資派となったからだとされました。

72年12月には毛沢東は林彪に対して明確な裁定を下すことにします。林彪の本質は極右であると。これを受けて、毛沢東と周恩来の間に重大な亀裂が入ります。周恩来が文化大革命それ事態を覆しているように見えたこと、外交の場で華々しく振舞っていたことが毛沢東の嫉妬心や猜疑心を芽生えさせていました。

「批林批孔」運動の開始

批林批孔運動は周恩来への周恩来への批判を行う運動です。毛沢東は儒教に対して極めて批判的な考え方を持っていました。

毛沢東にとって文化大革命の成果を覆す周恩来の姿が儒教的なものに映っていました。周恩来を叩くため毛沢東の妻・江青が急先鋒として活動します。毛沢東としては自分の妻が周恩来に喧嘩をふっかけている様子に苛立ちを隠せませんでした。毛沢東の妻への怒りは面と向かった叱責へとつながります。

後継体制の迷走ー鄧小平の復活と「四人組」の攻撃

毛沢東は周恩来の後継に鄧小平を加えます。

江青はこの人事に非常に不満を抱いていました。そこで王洪文を利用して破壊工作を行います。王洪文は江青の一派に取り組まれました。これによって四人組が生まれます。

四人組は本来であるならば協力すべき鄧小平と対立します。鄧小平は指導部内における左右のバランスを測ろうとしていましたが、王洪文による告げ口に対して極めて不愉快になり、右寄りの立場をとることになります。

鄧小平は四つの近代化を目指します。鄧小平はこの改革を実にうまくやります。しかし、その分手痛い代償を負うことになります。毛沢東夫妻からの疑念を持たれたからです。

毛沢東はなるほど経済を回復させたことは評価するものの、修正主義の復活には強い警戒心を持っていました。そこで鄧小平への批判を展開します。

1975年末の政局の逆転

「四人組」に警告を与える毛沢東

四人組による極端な思想と活動は次第に毛沢東に嫌われます。毛沢東は自己批判書の提出させるなど締め付けを始めました。

1975年夏の「水滸伝批判」

1975年夏、毛沢東に批判され、四人組は運気を使い果たしたかに見えました。しかし、毛沢東の水滸伝批判の中で息を浮き返すことになります。

水滸伝批判にて毛沢東は周恩来と鄧小平をまとめて叩きました。鄧小平による全面整頓がうまくいけばいくほど、毛沢東が鄧小平に対して疑いを強めるようになっていたのでした。

毛沢東による試験に「不合格」となった鄧小平と「右からの巻き返しに反撃する運動」の始まり

11月20日、毛沢東は政治局会議を招集して、鄧小平が主導して文革を肯定する内容を採択するよう指令します。

もちろんこれは鄧小平の毛沢東への忠誠心を図ったものでした。もちろん鄧小平は妥協を知らないため、自分が中心となって決議を行うことを拒否します。

これを受けて、毛沢東は鄧小平を否定するための会議を開催し、「右からの巻き返しに反撃する運動」を始めます。四人組が復活したのです。

周恩来の死と「四五運動」(天安門事件)

毛沢東による意外な人物の指名 華国鋒

周恩来が亡くなります。すると鄧小平は公の場から姿を消しました。周恩来も鄧小平もいなくなったことを受けて、毛沢東の甥が毛沢東に問いただします。一体だれを後継者にするのか?と。

毛沢東は意外にも華国鋒に指揮をとらせることを明言します。そこで発生したのが、第一次天安門事件でした。

四人組批判に対する批判が激しく巻き起こっていました。周恩来の追悼とともに政治局会議で対応策が協議されます。ハンガリー動乱を教訓に、鎮圧以外の手法は検討されませんでした。

「四五運動」(第一次天安門事件)と鄧小平の再失脚

「四五運動」=第一次天安門事件は紛れもない反革命事件であると批判し、鎮圧します。

と同時に、毛沢東は衰弱ぶりが明らかになっていました。しかし、毛沢東は全体未聞の反革命事件の黒幕は鄧小平であることを吹聴し、鄧小平と周恩来によって人々が苦しめられているとしました。再び鄧小平はお払い箱になります。四人組は小さく万歳。しかし、彼らが美酒に酔うことができたのは一瞬でした。

「十月政変」と文化大革命の終わり

毛沢東の死去

毛沢東が亡くなります。四人組の政治的な資産は毛沢東がバックについていなければ儚いものでした。四人組は毛沢東にぴったりくっついて、毛沢東以上に文革を叫んでいたのです。天安門事件を見れば四人組が大衆から見放されていることが明らかで、毛沢東しか頼れる人はいませんでした。

権力掌握を急ぐ「四人組」と十月クーデター

四人組は毛沢東と政治生命と終えるなんてまっぴらだと最高権力の確保を狙いました。天安門事件参加者への締め付けと鄧小平批判を展開します。

毛沢東の遺言に四人組は政治的後継者の正統性を見出そうとします。しかし、毛沢東から後継使命を受けた華国鋒は四人組を批判し、四人組は毛沢東の言質を改竄しているとしました。

こうして党や軍の反四人組の長老たちが結託、四人組の排除します。激しい文化大革命の提唱者・毛沢東と四人組が姿を消し、文化大革命は終わりを告げたのです。