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多様性のその先に何があるのだろう

多様性のその先に何があるのだろう

多様性は作り出すものではない 多様性はそこに存在するのである。

近年の多様性は一種のバズワードである。どこもかしこでも多様性の重要性が語られる。多様性を具体化すれば、その中身は女性の活躍や外国人材の受け入れなどである。

多様性を正確に理解するには自分の中で視座を設定し、その視座通りの認知をすることが必要である。そうしなければ、人は認知と自分が見ている視座のギャップに違和感を感じ、その違和感を埋めるために差別や排斥に走る。

多様性を捉える視座とは抽象化とグルーピングの尺度に他ならない。今ここに存在する我々はホモ・サピエンスでもあり、日本人でもあり、男性でもあり、埼玉県民でもあったりする。

多様性を構成する人間がどのようなグルーピングの元に成り立っているのかをまずは捉えることである。

この時点で多様性を作る前に、今の状態を認識するフェーズが挟み込まれていることを認識する必要があるのである。

多様性で僕らは何を目指したいのであろうか。

僕はディスカッションするサークルに入っているが、そのサークルで求められるのは積極的に外国人を受け入れることではないと思っている。いるに越したことはないけど。それは高次の多様性であって、まず目指したい多様性は多くの種類の学部から学生を受け入れることである。

ディスカッションはその人が生まれ育った環境と後天的に身につけた知識によって質が左右される。ディスカッションの質をあげることが目的なのだから、法学部政治学科だけの人間が存在してしまってはそれこそ「多様な」意見は出てこないだろう。

しかしたとえ、法学部政治学科の人間しかいなかったとしても、個人個人のバックグラウンドが違うことは明白であり、多様性があると言えなくはない。

これが視座の違いである。多様性というのはある集団における状況をさす言葉として考えられているが、その中でどのような視座設定をするかである。

視座はレベル感の違いである。マクロな目線、ミクロな目線を行ったり来たりできる人が「視座が広い」という。

この視座の広さは理想的な多様性を求めるのに必要である。

しかしここで気をつけないといけないのは自らが求める多様性を定義しないことである。このことがまさしく「多様性がない」のである。

日本人だけでもいいから多くの学部の人間が集まって欲しい

とか

積極的に外国人のメンバーを受け入れてほしい

とか

各集団によってそれぞれの思うところはあるだろう。

その思い通りの状況を実現して見てどうだろう。

自分の予想通りの結果になっただろうか。排斥は起きていないだろうか。なんとなく外国人を受け入れていい気になっていないだろうか。外面だけはいろんな人がいても、中身を見てみるとみんな同じ考えしかもっていないなんてことはないだろうか。

多様性は存在を認識すること自体はあんまり意味のないことである。多様性によって僕らは何を目指すのだろうか。多様性自体はそもそも存在している。

個人個人は違うのだから。

それでも多様性にこだわるのは何かが足りないからだ。多様性とはそもそも存在している。それでも多様性を希求するのはなんなのだろうか。そこを認識してみよう。