金大中政権についてわかりやすく解説!

金大中政権についてわかりやすく解説!

この記事では金大中政権について詳しく解説していきます。金大中政権といえば、対北朝鮮政策である「太陽政策」が有名で、これは現在の文在寅政権の対北政策の源流となっています。金大中政権の方針を見ることで現在の韓国政治が見えてくるかもしれません。

金大中、薄氷の勝利

金泳三政権末期の政界再編

初の文民政府である金泳三政権はその任期後半には経済政策の失策もあり、求心力を失っていました。例のごとく、金泳三政権末期からは次の大統領選を睨んで政界再編が行われました。

その中で目立った動きが地域主義を克服しようとする金大中候補の動きです。全羅道+忠清道の勢力の結集を狙いました。

それに加えて議院内閣制を公約として掲げることで、これに賛成する金鐘泌を取り込み、大統領選挙に臨みました。

第15代大統領選挙の結果とその意義

1997年12月に行われた第15代大統領選挙では、新国民政治会議・金大中と李会昌が有力候補として激しく戦いました。李会昌は清廉潔白のイメージを武器に与党・ハンナラ党から立候補しました。他にも保守派の李仁済も立候補しました。保守派は分裂していたのです。

選挙結果と得票率は以下のようです。

  • 金大中  40.3%  新国民政治会議
  • 李会昌  38.7%  ハンナラ党(新韓国党)
  • 李仁済  19.2%

得票率を見るように金大中はまさに薄氷の勝利でした。保守派が分裂せず候補が一本化していれば金大中の勝利はなかったでしょう。

この選挙結果は韓国政治の中でいかに保守が強いかを物語っています。何故ならば保守派は大統領選挙に向けての好材料が全くなかったにも関わらず、ここまで金大中を追い詰めたからです。

金大中が勝利することができた背景には地域連合を組むことができたことがあります。これをDIP連合(全羅道+忠清道)と言います。全羅道は政治基盤としては非常に弱いものです。人口が少なく、割り当てられる議席数が少ないからです。

金大中が勝利したことによって選挙による与野党の政権交代が実現しました。これは韓国政治では初めてのことで非常に意義深いものとなりました。

金大中の勝利は韓国政治の地域主義を是正する第一歩になるとも考えられました。金大中は全羅道の出身で、この全羅道は韓国の歴史の中で冷遇され続けた地域だったからです。

韓国大統領はそれまで全て慶尚道からの選出であり、それに伴って政府高官も慶尚道出身ばかりになっていました。結果的に予算配分も慶尚道が中心となり、全羅道は発展から取り残されていたのです。

金大中政権の政策

経済構造改革

金大中政権は発足直後からスピード感を持って、その経済構造改革を進めます。金泳三政権末期の経済失策によって韓国の経済は深刻な状況に陥っていました。

これを金大中は「第二の国難」(第一の国難は朝鮮戦争)と定義し、「新自由主義的改革」が行われるようになりました。通常、韓国における政権交代は60日程度の移行期間が設けられるのが慣習ですが、金大中政権では移行期間から実際の実務を進めていたことからも相当な危機意識があったことが伺えます。

規制撤廃によって民間への移行を進める「新自由主義」を進めると同時に、「ビックディール」と呼ばれる財閥間の事業交換を行います。

韓国経済の問題点は財閥があらゆる事業を行い、経済全体を行なっていることでした。これでは非効率なため、国家主導で財閥ごとに事業の選択と集中を行わせたのです。

やや社会主義的な側面があり、成功した財閥も失敗した財閥もありました。事実、いくつかの財閥はこのビックディールによって姿を消すことになります。この背景にはIMFによる構造改革への圧力があったとも言われています。

賛否はあるものの、全体的には非常に速いペースで経済危機を乗り越えていきました。

「与小野大」の政権運営

金大中政権は2000年4月に総選挙を迎えます。これに敗北すると一気に政権運営が厳しくなります。残りの任期は3年。3年間を議会の統制がままならない状態で政権を運営していくことになるのです。

総選挙の前には史上初の南北首脳会談(後述)の開催を発表したのにも関わらず、選挙に勝てなかったことは非常に大きな痛手になりました。この総選挙では「落選運動」なる選挙運動が展開されました。

この運動では公認を政党が上げるべきではない人や当選させてはいけない人が市民団体によってピックアップされ、大々的に訴えられました。かつての反民主化勢力に対する市民団体の反発があったのです。この頃から韓国政治の中での市民団体の影響力が拡大してきました。

「太陽政策」と南北首脳会談

金大中政権による政策の中で最も有名なのが「太陽政策」です。この太陽政策によって金大中は史上初の南北首脳会談を実現し、ノーベル平和賞まで獲得したのです。

金日成死後の北朝鮮に対して韓国は厳しい態度で臨んでいました。というのも北朝鮮が早晩に崩壊すると考えていたからです。しかし、金大中政権から方針は一転し、北朝鮮に融和的な政策を取ることになりました。

金大中による太陽政策は正しくは「包容政策」と言い、南北だけの関係ではなく、日米を巻き込んだ形で北朝鮮問題に対応していこうとしました。

太陽政策は現代グループ主導による民間交流から始まり、両国間の交流が活発化したところで2000年6月に初めての南北首脳会談が行われ、「六・一五宣言」に署名されました。これを機に南北の和解・交流・協力がより一層進むことになります。

南北首脳会談では経済交流が主に話し合われ、非核化について詰められたわけではありませんでした。

その一方で先述のように金大中は日米との連携を充実させ、北朝鮮の核問題に共同で対処する方針をとりました。

日本もアメリカも北朝鮮のテポドン発射に衝撃を受け、東アジア地域における安全保証の抜本的改革を迫られていたからです。

ペリープロセスと呼ばれる日米韓三ヶ国による安全保障戦略の協力に関しては下の記事にで解説しているので参考にしてください。