【読書という荒野】表現とは自己救済である【レビュー】

【読書という荒野】表現とは自己救済である【レビュー】

「読書という荒野」という忖度

気鋭の編集者・箕輪厚介さん(幻冬社)手がけた話題の書「読書という荒野」

自社の編集長・見城徹さんの半生を「読書」から紐解く。

読書初心者にとって、プロ中のプロにとっての「読書」はいかなるものなのか。期待を持って、その表紙をめくった。

第一印象として、見城さんの言葉はとてもわかりやすい。言葉によって人生を切り開いてきた見城さんの言葉はもっと重々しく近づきがたいものかと思っていた。いい意味で裏切られた。言葉のプロだからこそ、我々のようなアマチュアへの忖度も自由自在なのだろう。

血ヘドを吐いて、想像する

「言葉」が見城さんに踊らされる中で、僕が「おお」と思った部分を抜粋する。

「表現は結局自己救済なのだから、自己救済の必要がない中途半端に生きている人の元には優れた自己表現は生まれない。(中略)想像力は、圧倒的に持つ者と、圧倒的に持たざる者の頭のなかにこそ生まれるのである。」

なぜ「おお」と思ったのか?

それは自分自身がまさに自己救済の真っ只中にいるからであろう。

自分自身が表現者であることは、ネット上にこのように文章を生産している点で了解いただけるかと思う。

「表現者」として、事実を連ねることもあれば、自分の感情を入れ込むこともある。

事実を連ねることは基本的に、記憶を辿ればよい。あの時はどうだったかな。事実関係さえ述べれば、目的は達成される。

しかし、自分の感情を入れ込むことは違う。あの時の自分を表現するには今の自分とは違う「自分」があの時どう感じたのかを表現する必要がある。

これは「想像」するしかない。

感情は記憶できない。とても刹那的で、再現のしようがない。過去の自分の感情は思い出し、再現することはできない。想像するしかないのだ。

だから、過去の自分は「他者」である。思い出をなぞることは、「他者」に対する「想像力」を働かせることと同じである。

読者の方に、リアル感を持って伝えるためには「想像力」が必要で、その「想像力」は極端性から生まれると見城は言う。

自分にはその「極端性」はあるのだろうか。

これは自分自身で評価することはできない。しかし、3ヶ月に渡り、曲がりなりにも自己表現を続けているから「極端性」のカケラぐらいはあるだろう。

表現と自己救済

見城に言わせれば、表現をし続けることは自己救済をし続けることになる。本文では五木寛之や石原慎太郎を引き合いに、自己救済が必要な人の例をあげている。

彼らの人生の文脈が、「表現」という世界へ誘い、その沼に引きずり込んだ。彼らは、自己救済をし続けることによってのみ、自分の人生を冷静に捉えることができる。

何もない所へ自分が生み出す。客観的に見れば、これはとてもクリエイティブな行為だ。何かを創造した気分になってしまう。ある種の全能性を感じてしまう。

しかし、作家本人にとっては、クリエイティブという意識からは程遠く、自分の生存をかけて、生み出した劇物である。その劇物がなければ、作家は死ぬ。作家としても。人間としても。

自己表現と「言葉」

自己表現をするためには、僕にとって「言葉」は不可欠だ。言葉は読書によって獲得できる。本を読もう。

自己表現が自分に必要なのか、別にいらないものなのか。普通に過ごしているだけではわからない。必要なのか、不必要なのか。それは自己表現をすることによってしかわからないのだと思う。

自己表現をすることでしか、見えない世界がある。僕はその地平を見て見たい。好奇心がいたずらっぽい笑みを浮かべて僕に迫ってくる。僕の好奇心だ。好奇心とともに、目の前のパソコンに向かっている。

人生における自己表現とは、なんなのか。そして、「言葉」は自己救済のための命綱であること。引用した少しの部分から、僕は確かに見城さんの思いを受け取ったつもりでいる。