学級委員をやったせいで教育に疑問を持つようになった

学級委員をやったせいで教育に疑問を持つようになった

学級委員タイプの僕

小中学校には「学級委員」という役職がある。

僕は学級委員をよく務めていた。最近、僕と関わり始めた人からすれば驚くべきことかもしれない。

しかし、私はまがうことなき学級委員タイプだった。学級委員は他の委員会とは異なる点がある。それはクラス相手に仕事をするということだ。

給食委員は配膳を頑張る。放送委員は放送を頑張る。学級委員はクラスと学年を相手に頑張るのである。

学級委員は学期の初めにクラスで「話し合って」決められるものであるはずだが、公立の中学校ではそんなことはなかったと今思えば感じる。

クラス分けの時点で、各クラスに学級委員になりそうな人間がうまく配分されているのである。

僕はその「配分される側」の生徒だった。なぜだろうか?

成績がよかったからだろうか。確かにそうだ。僕は成績がよかった。成績がよい生徒は確かにグレている生徒よりも先生としては学級委員として扱いやすいだろう。そして、従属的だった。先生からすればとても扱いやすい生徒だったに違いない。

学校の先生にとって学級委員は扱いやすい生徒である必要がある。なぜかといえば、学級委員は先生たちが掲げた目標を達成するための「駒」である必要があるからだ。

学年目標という存在

「笑顔が溢れる学年」と言ったような学年の目標はどんな小中学校でも設定されるものだ。先生たちはみずからの教育者としてのミッションを設定するのである。

先生からすると自らが直接的に生徒の中に入って、自らが掲げた目標を達成するための行動はするわけにはいかないから、「学級委員」というラベルを貼った生徒を他の生徒たちの中に放り込むのである。

当時を思い返してみると、特に何も考えずに、学級委員としての職務を果たしていたように感じる。先生に僕は学級委員として活動することが期待されていると思っていた。

学級委員は先生の手のひらの上

しかし、今、冷静になって観察してみると、これは「無意識化での従属」である。「学級委員」はどんな仕事をするのかの明確な定義もないまま、教師に言われるがまま、クラスメイトを列に並ばせ、朝校門の前に立っていた。というより、立たされていた。

まさしく、手のひらの上で踊らされていたのである。

しかし、当時は嬉々として「学級委員」をやっていたのだ。これは若気の至りというほかあるまい。

しかし、そんなウブな私でさえ、「学級委員」というものに疑問を抱く事件が起きた。

事件発生

あれは中学校何年生だっただろうか。

いきなり私のクラスメイトが担任の先生に掴みかかったのである。

先生は早く隣のクラスの先生を呼んできてとヘルプした。僕は廊下側に座っていたので、すぐに呼びに行った。掴み掛かり事件がその後どうなったかは覚えていない。

問題は、先生が学級委員である私(ともう一人の女の子)を呼びつけたことである。

「なんでもっと早く隣の先生を呼びにいかなかったの??怒」

先生の口から発せられた言葉というものは私の予想の範疇を超えていた。

「みんなでこんな事件が起きないようにしていきましょうね」これぐらいが関の山かと思っていた。

今と同じように全く知力も観察力も足りない当時の僕は先生の口から出た驚きの言葉に「はい、すみません」と答えるしかなかった。

一連の事件が終了したあと、「なんで俺、怒られたの?」という疑問の念に苛まれることになった。

真っ正面から答える

「もっと早く呼びにいけ」という僕たちへの責めの意味を真っ正面から捉えるとするならば、クラスメートが摑みかかる前にその行動を予知し、隣のクラスに行って、そのクラスの先生に「私のクラスメイトが今から担任に摑みかかると予知できるので、私のクラスにきて、その行為をとめてください」ということを言いにいかなくてはいけない。

隣のクラスの先生は、僕のクラスに行くことなく保健室に行くだろう。もちろん僕を連れて。

ということで、「もっと早く呼びにいけ」という言葉の真意を僕なりに忖度してみた。

先生の気持ち

「駒」がしっかり働かないから、掴みかかるのだ。

だから、「駒」には説教をしなくてはいけない。

私たちの学年が目指す「笑顔溢れる学年」に「摑みかかる生徒」などあってはいけない。なぜこんな事件が起きたのか。そうだ。「駒」が働かないからだ。そうに違いにない。

もちろん、先生の気持ちは僕にはわからない。推論の域を出ないのである。だから、これを信じないでほしい。先生の名誉に関わるかもしれない。

しかし、こう考えてみると、嬉々として学級委員を務めていた僕からすれば、衝撃的な発言であった。先生はそれなりに信頼できうる存在である。突然の裏切りとも取れる行為に僕は動揺した。そして「理不尽である」という感覚をもたらした。

理不尽と教育

理不尽なことは人生で起きるものである。しかし、教育機関という枠組みの中で、このような理不尽さを生徒に教え込むことは特に意味もない。作為的に理不尽さを教えるならまだしも、偶然の流れの中での「理不尽を教えるための教育」として教師の逆ギレを正当化することは、いじめを正当化する論理と一緒である。

一人の教師の発言、パーソナリティーが一人の生徒に残り続けることは、教育を志す方々が留意されたいことである。教育は大きな力を持っている。

つい熱くなってしまった。10年ほどたっても、この事件を思い出すと、美しい中学校の思い出に一本の切り傷が入ってしまうような感覚がするものである。

先生個人を責め立てているつもりはあるが、それが出ないように配慮したつもりである。

この事件の意味

この事件は私に「権力」に従属することとは理不尽さの押し付けを受け入れることであり、そして「教育」とは主観的な価値観の押し付けなのではないかということ。そして「先生」という存在の愚鈍さ。「学級委員」という立場のバカバカしさを教えてくれたという面ではとても有意義なものであった。

一連の発言は「教育」の有用さや素晴らしい「先生」がいらっしゃることを念頭に書かれたものである。読者の方々におかれては、ご了承いただきたい。

批評は全体を担当することはできない。もし批評が全体を担当していたら、それは「批評」ではなく「煽動」である。

この文章を読者の方々がどのように読み取るのだろうか?ネタとして受け取るのだろうか。教育への真面目な批判ととるのだろうか?

少なくとも私は真面目に書いている。

ちなみに僕はこの事件が引き金になったかはわからないが、「教育」に興味が持てないでいる。