align="center"

第2回 ヨーロッパ近代史を政治史の面から読み解いてみよう!【勢力均衡とウィーン会議】

第2回 ヨーロッパ近代史を政治史の面から読み解いてみよう!【勢力均衡とウィーン会議】

大国間政治の展開 

覇権主義と勢力均衡  

歴史的に、ヨーロッパでは政治主体による「覇権」の追求が志向されました。「覇権」を確立するには他の政治主体と比べ、パワーの優位性と権威が必要です。

近代ヨーロッパにおける大まかな3つの覇権への挑戦がありました。19世紀半ばに至るまで、フランスとオーストリアが覇権を求める中心でした。その後、急速に軍事力をつけたドイツがヨーロッパの覇権に挑戦することになります。

その結果、ヨーロッパでは覇権国への不安があります。そのため、勢力均衡の原則が確立されるにいたります。ブルによれば勢力均衡の3つの機能があり、普遍的帝国の阻止、特定地域の国々の独立を保護、国際秩序の諸制度への維持です。1713年のユトレヒト条約を契機に勢力均衡の原則が確立します。フランスの覇権を防ごうとしたのです。

戦争と外交

30年戦争は宗教戦争の最終段階で行われた戦争です。プロテスタントとカトリックの戦争は神聖ローマ帝国全土に広がり、ハプスブルク家は旧教で帝国を統一しようとしました。

そこでスウェーデンが参戦することになります。スウェーデン皇帝の勝利により、プラハ条約が結ばれ、戦争は終結するはずでしたが、フランスが参戦することで戦闘は継続することになります。

フランスのリシュリュー枢機卿はフランスの国力が第一義的に重要で、宗教の枠組みを超えても、各国と協力関係を築きます。戦争が終結し、ウェストファリア条約が成立すると、フランスは近代国家としての歩みをみせ、中央集権化がすすめられたのです。

リシュリュー枢機卿のもと、「国家理性」による徹底的なリアリズムと、勢力均衡の概念に基づいた神聖ローマ帝国への覇権に抵抗するようになります。30年戦争をドイツ国内で行わせたことにより、フランスはドイツでの統一国家の出現を遅らせることに成功しました。

フランスとしては最大の安全保障条約上の懸念がドイツであり、そのドイツを叩いたことで、フランスは近代化を進めることができたのです。18世紀にはいると、フランス王・ルイ14世が孫をスペイン王に就任させようとします。

これに対して、オランダ、オーストリア、イングランドが対仏大同盟を結成することで、スペイン継承戦争が勃発します。結果、ユトレヒト条約によってフランスの進出は押えられ、変わってイギリスが海洋国家としての地位を確固たるものにしていきます。

イギリスはヨーロッパにおいてバランサーの役割を果たしていきます。一方、ハプスブルク家ではカール6世の死後、マリア・テレジアが皇帝位に就任します。これにプロイセンは反対し、フランスもそれに同調。オーストリア継承戦争が勃発します。オーストリアはイギリスとオランダからの支援を受け、戦ったが、結果的にアーヘン条約が結ばれ、プロイセンが強大化する結果に終わるのです。

ウィーン体制と欧州協調 

ナポレオン体制とヨーロッパ

フランス革命による「共和主義」という新たなイデオロギーが拡散することを恐れたオーストリアとプロイセンの皇帝はピルニッツの会談で、フランスにおける王政の復興が秩序に繋がると宣言します。

この2国は結局、1792年にフランスに革命干渉戦争を始めるに至った。フランス革命軍はバルミーの会戦で国民軍としてプロイセン軍を破る快挙を達成します。

フランス革命軍の戦争がひと段落すると、ナポレオンが登場します。フランスの覇権主義への動きが活発化する中、他のヨーロッパ諸国は勢力均衡原理を働かせ、フランスに対抗しようとします。

ナポレオンが登場し、フランスはヨーロッパ各地に勢力圏を拡大していきます。そのナポレオンにとって最大の敵はイギリスでした。トラファルガーの海戦でイギリス海軍提督ネルソンに破れたナポレオンは、イギリスへの海上封鎖をはじめ、イギリスへの挑戦を続けていきます。

一方、大陸ヨーロッパではフランス軍は相変わらず進撃を進めていた。1805年にアウステルリッツの戦いで破れたオーストリアは、フランスによって、ドイツに「ライン連邦」を形成され、神聖ローマ帝国は終焉します。ハプスブルク家の凋落は進み、神聖ローマ帝国を追われたハプスブルク家は「オーストリア帝国」を誕生させたのである。

1811年にナポレオンが統治するフランス帝国は絶頂を迎えます。しかし、1812年のモスクワ遠征が失敗に終わると、ナポレオンの勢力は徐々に低下します。その流れに呼応して、対仏大同盟が模索され、まずプロイセンとロシアが同盟を組み、そこにイギリスが参加します。

結果的にイギリス外相・カースルレイが四大国の協調させることに成功します。その中の一国、オーストリアもメッテルニヒ外相の元、最初はナポレオンとのフランスとの外交的な講話を結ぶことを目指しますが、ナポレオンに拒否され、イギリスへの同盟に舵を切ることになり、対仏大同盟の形成へと進んでいきました。

ウィーン会議と戦後秩序体制

ナポレオン戦争後の国際秩序を形成するために、ウィーン会議が開かれます。ウィーン条約以前に2度のパリ条約が結ばれていたが、さらなる新秩序の形成が志向されていきました。

ちなみに、パリ条約締結と同じ日にアレクサンドル1世の提唱で神聖同盟がオーストリア、ロシア、プロイセンの三国によって締結された。アレクサンドル1世はウィーン会議において「理念」の要素を強く強調します

ロシアは伝統的にキリスト教を根底に持っています。イデオロギー的な膨張主義がしばしば見られ、キリスト教精神に基づく、神聖同盟を提案していきます。

一方で、イギリスのカースルレイはより実務的な領土解決を志向し、神聖同盟を疑問視していました。オーストリアのメッテルニヒはウィーン会議によって、巧みな外交手腕を発揮していました。

メッテルニヒは18世紀的な「理性」の信奉者であり、保守的な思想を持っている人物でした。ウィーン会議を主導したメッテルニヒの影響で、ウィーン会議は保守的な考え方が色濃く残ることになります。

メッテルニヒは自らの理念のもと、ロシアに対抗してオーストリアの影響力を再構築しようとします。プロイセンに対しては優越的な地位を確保することも目標としました。

一方のイギリスについて。ウィーン会議でのイギリスを率いたのは、外相のカースルレイでした。ウィーン会議でのイギリスの方針は、フランスとロシアの膨張を抑制して、ナポレオン戦争中に獲得した海外領土を確保しようとすることでした。

ウィーン体制では、ヨーロッパ全体として、勢力均衡の原理に基づいた安定的な秩序を作り出そうとしました。カースルレイは、各国の首脳が定期的に会合する「会議体制」によって国家間の安定を取り戻そうとすることを目指します。しかし、この「会議体制」は1822年のカースルレイ自殺によって終結してしまうのです。