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第3回 ヨーロッパ近代史を政治史の面から読み解いてみよう!【欧州協調と革命】

第3回 ヨーロッパ近代史を政治史の面から読み解いてみよう!【欧州協調と革命】

欧州協調の精神とその衰退

「欧州協調」の精神 

1814年から1848年までの平和は「欧州協調」によって達成されます。その「欧州協調」を支えたのが「正統主義」です。「正統主義」とは、正統性を持った君主による統治のことです。

この「正統主義」という価値がヨーロッパで共有されていたために、平和が保たれたと考えれられています。ナポレオンによって混乱したフランスもブルボン王朝が復活したことで、この「正統主義」の共有をするに至ります。

もう一つ「欧州協調」を支えていたシステムがあります。「会議体制」です。五大国が定期的な外交協議をすることで安定的な国際体制が保たれていたのです。

「欧州協調」は概ね安定的に推移していましたが、1822年に英外相・カースルレイが自殺することによって「会議体制」は衰退の傾向を示します。

イギリスは後任のカニング外相はヨーロッパ大陸への関与を止め、孤立主義的な方針に回帰します。これはヨーロッパでのバランサーがいなくなることを意味しました。

ウィーン体制下でのヨーロッパを激震させたのが、1870年フランス7月革命です。これにつづくベルギー独立戦争でもヨーロッパ各国のイデオロギー的な対立が表面化します。この対立を調停したのがイギリスでした。パーマストン外相がロンドン議定書を締結させ、五大国がベルギー独立を認めたのです。

ナショナリズム・リベラリズム・革命 

1830年・1848年の革命後、パーマストン英外相は「会議外交」を進め、紛争の外交的解決を目指します。

これにフランスも同調し、2か国間では自由主義的外交がなされていました。ウィーン体制での正統主義は終焉したのです。ウィーン体制と意味を同じにするメッテルニヒ体制は限界を迎えていたのです。

メッテルニヒ体制は現状維持を目的とする体制です。メッテルニヒ体制は、国際政治の舞台ではウィーン体制と勢力均衡の原理の維持、国内政治の舞台では中央主権的な官僚支配、貴族階級の支配を好みます。

メッテルニヒはオーストリアの国内情勢に合わせた外交方針を採っていました。多民族国家であり、財政難と軍事的な脆弱性に悩まされていたオーストリアは協調外交による国際秩序の安定を望んでいたのです。

革命、ナショナリズム、リベラリズムを嫌悪していたメッテルニヒでしたが、1848年の革命でそれらの動きを止めることは不可能になりました。

リベラリズムをめぐっても、大国間で亀裂が走ります。英仏はリベラリズムを理解し、実践したが、墺、普、露はその理念に反対します。こうして、五大国はイデオロギー的に二つのグループに分裂することになり、欧州協調は崩壊に向かっていきます。

ウィーン会議後、メッテルニヒ率いるオーストリアはプロイセンに優位な立場を維持し続けます。これはドイツ地域におけるオーストリアの優位を保証していたのです。

1848年革命とメッテルニヒ体制崩壊によってオーストリアのプロイセンの優位は終焉します。すると、宰相ビスマルクの元、軍事的な優位を拡大させたプロイセンがオーストリアに優位な立場をとることに成功します。プロイセンは中欧で圧倒的な国力を持つようになり、次第にオーストリアを従属する立場に追いやることになっていきます。

一方、フランスではナポレオン3世が登場します。ナポレオン3世は穏健な協調外交によるフランスの国際的な地位の獲得を目指していました。

クリミア戦争はオスマン帝国が衰退するなかで南下政策を採るロシアがイギリスと対立するなかで発生します。フランスはイギリスの側に立ち、ロシアに勝利しました。

結果的に、ナポレオン三世はヨーロッパ外交界において中心的な存在となります。プロイセンがその軍事力を充実させ、普仏戦争でフランスを破るまで、ナポレオン三世はヨーロッパ外交の中心に位置し続けることになるのです。