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第4回 ヨーロッパ近代史を政治史の面から読み解いてみよう!【ビスマルク外交】

第4回 ヨーロッパ近代史を政治史の面から読み解いてみよう!【ビスマルク外交】

ビスマルク外交と勢力均衡

宰相ビスマルクの登場

1860年代から1880年代までのヨーロッパ大陸ではドイツ宰相ビスマルクがヨーロッパ外交の中心に座っていました。同盟や秘密外交を結び、勢力均衡を達成する国際体制を成立させたのである。

ビスマルクはリアリズムの立場から外交を行っていましたが、同時期の英首相・グラッドストンは対照的に道徳的外交を志向していました。

プロイセンのドイツにおける覇権確立までの足跡を確認してみましょう。多くの領邦に分裂していたドイツ内では、プロイセンとオーストリアによる覇権争いが続いていました。

メッテルニヒ体制ではオーストリアが優位な立場でしたが、プロイセンが急速に軍事力をつけ、プロイセン優位が確定します。両者の力関係を確定させたのが1866年の普墺戦争です。

ドイツとイタリアの統一によって大国からの地位から凋落しつつあったオーストリアにとって、バルカン半島が唯一自らの優位を示せる地域でした。

スラブ人の独立要求が噴出し、オーストリアはますます苦しい立場に追いやられることになる。

普仏戦争とドイツ統一 

ドイツ統一のためにビスマルクは猛進します。ナポレオン三世はドイツ統一を嫌っており、両国の対立は激化します。その結果、1870年普仏戦争が勃発します。

普仏戦争はプロイセンの圧勝に終わります。1871年に講和条約が結ばれます。この講和条約では巨額の賠償金とアルザスロレーヌ地方のドイツへの割譲が決定します。ヴェルサイユ宮殿でドイツ統一が決まったこともあり、フランスのドイツへの復讐心は大きなものになります。

ドイツ人のナショナリズムをすくい取ったドイツ帝国の出現はウィーン体制の衰退の象徴で、ドイツを中心とする新しい国際秩序のシステムが現れたことを意味します。

大きな国力を持つことになったドイツですが、ビスマルクの穏健的な外交によってその膨張が抑制されていました。ビスマルクは覇権を求めるのではなく、新しい安定的な国際秩序の中にドイツを位置付けることを目標にします。

その目的の元、プロイセンは1873年にロシアとオーストリアと「三帝同盟」を結びます。ビスマルクは同盟を中心とする国際秩序を作り出そうとしたのです。

ヨーロッパの多くの国が同盟網によってつながる国際秩序が出来上がり、その中心にはビスマルク率いるドイツがいました。「ビスマルク体制」の下、ビスマルクはフランスを中心とした対独同盟が形成されることを嫌いました。そのため、ビスマルクの最優先事項はフランスの孤立化にありました。

ビスマルク体制の中で、一つの懸念事項がありました。「東方問題」です。オスマントルコの衰退に端を発する「東方問題」はバルカン半島へのロシアとオーストリアの膨張に繋がっていきます。

1875年、バルカン半島への南下政策を進めるロシアが、オスマン帝国と一戦交えます。露土戦争です。結果はロシアが圧勝します。

露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の結果、ロシアの地中海地域への影響力が拡大します。これに反発したのがイギリスでした。このロシアとイギリスの「グレートゲーム」を見かねたビスマルクは、ベルリンで両国の仲介をします。このベルリン会議によって東方問題は解決に向かい、一定の秩序が形成されることになります。

しかし、ベルリン会議で自らの権益が縮小したロシアと同会議を主催したドイツとの関係が悪化し、ロシアは「三帝同盟」を離脱します。ビスマルクは関係修復をすぐさま行い、1881年にはロシアを「三帝同盟」に復活させます。そして、1882年には「三国同盟」を形成、英独協定も結びます。

同盟による安定した国際秩序によって、ヨーロッパには平和がもたらされていました。しかし、バルカン半島情勢が悪化し、ロシアとオーストリアでの対立が激しくなると、ビスマルク体制を持ってしても、ヨーロッパにおける勢力均衡はうまく作用しなくなります。

ビスマルクがヴィルヘルム2世との不和により失脚すると、ビスマルク体制はいよいよ崩壊。その結果、ヨーロッパは軍拡と相互不信、民族対立へ発展していくのです。