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第6回 ヨーロッパ近代史を政治史の面から読み解いてみよう!【第一次世界大戦の勃発】

第6回 ヨーロッパ近代史を政治史の面から読み解いてみよう!【第一次世界大戦の勃発】

第一次世界大戦の起源 

ビスマルク体制の崩壊

ドイツではビスマルクを辞任させた皇帝ヴィルヘルム2世が親政を行うようになります。ヴォルヘルム2世はロシアとの同盟関係に反対し、1890年に再保証条約の更新を決定します。

その結果、ロシアはフランスを接近し、ドイツ包囲網が形成されていきます。ビスマルクの後任にはレオ・フォン・カプリヴィが宰相に就任しますが、すぐに辞任。ビスマルク体制の崩壊は決定的になります。1894年に露仏同盟が形成され、ドイツの孤立化は深まっていきます。

ドイツは「ヴェルトポリティーク」による海軍力の強化、帝国主義的な政策を始動させることになり、必然的にイギリスやフランスとの対立が激しさを増すことになる。 

三国協商体制と対立の構造化

デルカッセは19世紀末より、第一次世界大戦まで活躍したフランスの外相です。彼は、フランスの安全保障はイギリスとの和解とロシアとの友好関係によって確保されるとの方針をとりました。

1904年には英仏協商を実現させ、英仏の安定した協調関係を作り出すことに成功します。これに引き続き、三国協商体制の形成も図ります。

デルカッセは英仏協商、英露協商、英露の接近などによって、ドイツ包囲網を作り出します。英仏は海軍においても協力関係を構築します。こうして、デルカッセ体制とも言うべき国際関係が作り出されていきます。

イギリスの海軍力は「二国標準」を前提に成り立っていました。世界2位と3位の海軍力を合計よりも大きな海軍力を持っていれば、海軍覇権が維持されることになると考えたのです。

しかし、英独海軍力の軍拡競争が激化することで「二国標準」は終焉を迎えます。ドイツが海軍力を増強させた背景にはマハンの「シーパワー」論がありました。ドイツの海軍力の軍拡はイギリス政府に大きな不信感をもたらします。

イギリスは日露戦争によって海軍力が低下したロシアとの協力関係を模索し始め、仮想敵を次第にロシアからドイツへと転換させていきます。ドイツはドレッドノート型戦艦を開発し、イギリスの海軍力に容易に追いつきます。このことはイギリスの危機意識を掻き立てました。

英仏協商による英仏の緊密化に危機感を覚えたドイツはモロッコ危機を通じて、英仏関係に楔を打ち込もうとしましたが、失敗に終わります。

イギリス外相はこのドイツの稚拙な外交手法に反発し、フランス支援を約束します。英仏の分裂を狙ったドイツにとっては皮肉な結果に終わったのです。

こうして、ドイツ対イギリス・フランスという第一次世界大戦開戦に決定的に重要な影響を及ぼす構図が形成されたのです。

さて、ビスマルク体制のころから懸念事項であったバルカン半島の「東方問題」は二つの大きな問題を孕んでいました。

一つ目はオスマン抵抗の衰退です。この衰退はバルカン半島は不安定化を意味しました。二つ目がオーストリア帝国の統治弱体化です。その結果、ナショナリズムの興隆によるドイツ人支配の動揺と、チェコ人やスラブ人の自治要求が高まったのです。バルカン半島ではナショナリズムがパンスラブ主義とパンゲルマン主義という構図になって、衝突していくことになったのです。

第一次世界大戦の勃発と発展

1914年初頭、ヨーロッパは平和的な雰囲気に包まれていました。しかし、1914年のサラエボ事件を引き金に突発的にヨーロッパを巻き込む大戦争が発生します。

サラエボ事件発生直後のイギリスではこの事件の取り扱いが大きいとは言えませんでしたが、7月28日、オーストリア政府はセルビアに対して宣戦布告します。

この宣戦布告は、セルビア人を擁護するロシアとオーストリアの戦争に発展していきます。オーストリアの同盟国であったドイツもこの戦争に参戦、ドイツ参戦をみて、フランスが参戦し、大戦争となったのです。

一方、イギリスは当初、この戦争に参加しない意思を表明していました。イギリスがロシア、フランスと結んでいたのはあくまで「協商」にすぎず、軍事的な協力関係である「同盟」ではなかったことがイギリスを踏みとどまらせていたのです。

しかし、結局、イギリスも参戦を決意します。きっかけとなったのが、ドイツのベルギー侵略です。ベルギーを支配し、イギリスの対岸にドイツ軍が銃を構えることはイギリスの生存戦略上、極めて不安なことだったからです。

こうして、イギリスの参戦を持ってヨーロッパ全ての国を巻き込んだ世界戦争へと発展していきます。そうして古い秩序は崩壊し、第一次世界大戦後の新しい国際秩序へと進んでいくことになったのです。