SNSへの投稿でフットワークが軽くなる説
- 2018.06.22
- 生き方

固まるおばちゃん
電車に乗っていた。横目で隣をなんとなく確認すると、おばちゃんが立っていた。結構なお年だ。申し訳ないが、初老というには少し遅い。小柄な人だった。
横目で見ていたので、僕は具に見ていた訳ではない。しかし、おばちゃんはスマホで「LINE」を起動していたことはわかった。白い吹き出しと緑の吹き出しがお互いに主張し合う画面は、2018年時点ではほぼ100%「LINE」ということで間違いないだろう。
そんなおばちゃんはスマホを持ちながら固まっていた。送信欄に文字を入力していたことはわかった。中身はわからない。
送信欄に文字を入力をして、固まるおばちゃん。どの絵文字がいいかしら、どの「スタンプ」がいいかしら。この「コニー」なるうさぎも可愛いわね。「ブラウン」とかいうくまはちょっと無表情ね。そんなことを考えていたのだろうか。
結局、おばちゃんの送信を見届けることなく、僕は電車を降りた。
駅をおり、家に向かいながら、「LINE」の送信欄に長時間放置された文字たちのことを偲んでいた。自分がおばちゃんだったら、さっさと送ってしまうだろうになと思った。送信されないと文字たちが浮かばれないではないか!
にしても、おばちゃんは「スマホの中でのフットワーク」が重いなあと感じた。今回はそれに関して検討する。
スマホの中のフットワークの軽さとは?
まず、スマホの中でのフットワークの軽さについて検討する。
まず、フットワークが軽いということは僕はとてもよいことだと思っている。フットワークが軽い=自分を阻む心の障壁が少ないことを意味すると思うからだ。
僕が出会ったおばちゃんはスマホの中でフットワークが重かった。送信するまでかなりを時間を要していたと見えたからだ。決断に時間がかかっていた。
ということは翻れば、スマホの中でもフットワークを重くする要因があるということだ。これはスマホをいじっている中で心の障壁があることと同じだ。その障壁とは何だろうか?これは「自分の言いたいこと」を正確に伝えたいということだと思う。どういうことか?これについて考えるには「SNS」でのコミュニケーションについて考える必要がある。
SNSでのコミュニケーションとはどんなもんだ
SNSでのコミュニケーションはどんな性質を持っているのだろうか?
SNSでコミュニケーションをとることは相手を想定し、自分で言葉を紡ぎ、時には絵文字、スタンプ、画像などを駆使し、相手に自分の意図を伝えようとするものだ。
SNSは手軽なコミュニケーション手段である。送信ボタンをポチッと押せば、自分の言葉(らしきもの)が相手に伝わっていく。
しかし、ふとSNSを眺めて見れば、上で言ったように、色々なツールがあふれている。
すなわち、SNS上では色々なツールが溢れ、随時、決断が迫られる。自分の思いを正確にSNS上で表現したいという人にとって、SNSでの決断はなかなか重いものとなるだろう。
SNS上での決断の重さはその人の丁寧さを表すものだとは思うが、使い方を間違えているとも言える。ネットでの言葉は、自分の思いを正確に表すことは基本的にないと思うからだ。
「粗い」メディアとSNS
SNSで自分の考えていることを正確に伝えようとすることは難しい。言葉は目の粗いメディアである。だから、「言葉」で全てを伝えようとすることは不可能だ。気持ちの「漏れ」が出てくる。
そして、 SNSの発達は発信量の増加をもたらした。その結果、SNSを見る側は発信されたものをいちいち立ち止まって検討するなんてことはない。いくら丁寧に時間を使って、どの画像やスタンプにするかを決めても、相手は特に気にも止めないのだから、SNSで時間を使うのはやはり非合理であろう。
SNSの発信でフットワークが軽くなる説
そこで発想を転換して、フットワークを軽くするためにSNSを使えるのではないかなと思う。
決断をする回数を増やすことでフットワークは軽くなると思っている。決断回数は決断時間の減少をもたらす。決断に「慣れる」といったところか。
先ほども述べたように、 SNSで発信することはその中に色々な決断を含んでいる。「何」を考え、「誰」に向けて「何のため」に発信するか。それを「どのように」表現するか。
SNSで発信することで決断のサイクルを爆速で回し、発信回数を増やすことによって、決断する回数は増える。このプロセスで自分の思考のパターンを理解することができ、その結果、自分が何を求めているのかがわかるようになる。その結果、フットワークが軽くなる。フットワークが軽くなるとは自分の行動を縛るような心の壁がなくなるということだ。
これはあくまで「仮説」だ。しかし、検証価値はあるのではないかと思っている。しかし、この仮説を検証するには一つの前提がある。
それは、SNSでは相手に自分の気持ちを伝えることはできないという立場に立つというものである。どうせ、伝わらないのだから、ある意味適当に、発信を重ねることができるというマインドセットを持つことが大切なのではないかと思うのだ。
まとめると、SNSを自分のために発信するということである。こういう意味で、僕はツイ廃はなかなかいいものだと思っている。自分の思考プロセスを決断速く、記録に残しているからだ。手軽なSNSだからこそできる芸当だと思う。
こんなことを考えながら、僕は隣のおばちゃんを見ていた。
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