【絶景】富良野の自然を喜ぶことは本当によいことだろうか?

【絶景】富良野の自然を喜ぶことは本当によいことだろうか?

札幌から富良野へ

札幌から青い池を見物した後、富良野へ向かう。今日の予定はこれだ。昨日の小樽も美しかったが、青い池や富良野にはどんな美しさが待っているのだろうか。10月になれば北海道の秋は加速度的に冬へと歩みを進めていく。全力疾走の北海道の秋を一生懸命捕まえてみようと思った。

ストレスフリーな北海道の車事情

それにしても「北海道はでっかいどう」とはよく言ったもので、札幌から富良野までは車で3時間。軽いドライブ感覚だったので少し面食らった。北海道の道路事情も驚くべきである。一般道なのに時速80kmでスムーズに車が流れていく。しかも、車線は広く、片道5車線。多くの信号を前にイライラする生活がここにはないんだなあ。北海道らしい一面の田園風景を眺めながら車は一路富良野へと向かっていた。

車から見えた北海道の秋

「青い池」から感じる不気味な蒼さ

「青い池」に到着した。かの「Apple」のパソコン「Mac」のデフォルトの壁紙にも採用されたほどの絶景である。この「青い池」。本当に「青い」。「半分、青い」なんてものではない。「全部、青い」のである。その青さは不気味だ。不気味なほど青い。しかも、湖面には整然と枯れ木が立っている。もう!怖いよ!

人口と自然の共演

「美しいから怖い」のか「怖いから美しい」のか。僕は判断に困ってしまった。ともあれ「青い池」がなぜこんなにも「青い」のか。湖に立つ木々はなぜ「枯れている」のか。これらを明らかにしないといけない。

「青い池」はもともとダム様に開発された人工池であった。その青い池に偶然にもアルミニウムが流入し、化学反応の結果、奇妙で神秘的な「青い池」ができたとの説がある。不明な点も多く、青い池の「青さ」は未だ謎に包まれている。

それにしてもこの青い池の「青さ」はどこか人工的なものを感じる。自然の中にある「人工」が「青い池」なのかもしれない。僕はその「人工」的な何かに一抹の不安を感じさえした。と同時に、季節が秋でよかったとも思った。池を囲む紅葉の美しさが僕の不安を和らげてくれたからだ。

富良野のでこぼこな美しさ

普段僕は埼玉から神奈川あたりを生活圏としている。紛うことなき「都会っ子」である。都会は地面が一面コンクリートで覆われ、人々が暮らしやすい様に地面もフラットになっているところが多い。そんな僕みたいな「都会っ子」は地面がコンクリートでできていると錯覚してしまう。でも、都会のコンクリートの下には地面があるし、「土」があるのである。

筆者の後ろ姿である。

そのことを改めて教えてくれるのが「富良野」だ。地面が本当の姿のままむき出しになっている。人が暮らしやすい様に「フラット」に加工されていることなんてない。富良野には凸凹の大地が広がっている。ひとたび、高台に上がってみれば、富良野の波打つ大地が確認できる。その大地に広がるのは、じゃがいも畑、牧場といったところか。

畑も牧場も厳密に言えば、「自然」ではないのだけれど、「都会っ子」の僕にとっては十分「自然」だ。美しいなあ。波打つ富良野の大地は冬支度を進めているに違いない。それでも僕を暖かく包んでくれた。

自然をありがたがるなんて大丈夫?

とある展望台についた。ここからは富良野の大地が一望できる。

車を置き、展望台に登ってみる。いい写真が撮れた。

見知らぬおじさんの後ろ姿
クリスマスツリーのよう

他にもポツポツと観光客がやってくる。日本人、外国人問わず、富良野の大地をぼーっと眺めて、そして帰っていく。そこには「富良野」という非日常を味わって帰っていく人の姿があった。きっと彼らも「都会っ子」なんだろうな。

自然あふれる場所に人は集まる。そしてその場所は観光地になる。富良野のように。

富良野のような場所が観光地になる背景には「都会っ子」が普段の生活の中で感じている息苦しさがあるんじゃないかなと思ったりする。

普段の都会生活に疲れてしまった人は、少ない休みの日に自然を求めて富良野のようなところにやってくる。少しばかりの間、自然をありがたがって、また都会に帰っていく。僕を含め、「都会っ子」は自然を消費して、帰っていく。

富良野は確かに美しい。でも、観光地になった富良野を支えているのは都会っ子が潜在的に抱えている都会の生きづらさなのだ。

僕らの都会生活はどこか間違っているのではないか。富良野の美しさに感動しながらそう思った。

@10月21日