義和団事件とはなんじゃろな?わかりやすく解説!

義和団事件とはなんじゃろな?わかりやすく解説!

この記事では義和団事件について詳しく解説しています。日本史の中では日露戦争へのきっかけとなったと紹介される義和団事件。その内実はどうだったのか?中国では何が起きていたのか?を中心に深堀り解説をしていきます。

事件の概要

19世紀後半の中国では、外国人宣教師とその布教活動に対する抵抗運動が次第に激しさを増していました。やがて山東省の西部から大規模な「排外運動」が生まれてきます。義和団による「義和団事件」です。

義和団は1900年には北京を占領しかけるなど清朝を脅かしました。

義和団は我々からするとなかなか風変わりな集団。お札を焼いて、その灰を飲み、カンフーの練習をすれば負けることはないとの教義を持っていました。

清朝はこの集団を利用して西洋列強に宣戦布告を行いますが、八カ国連合軍の前に敗北し、中国の半植民地化は一層深まることになりました。

以下、より詳しくこの反乱の起源、経緯、結果、意義について検討していきます。

運動の起源と性格

清朝とキリスト教ー信徒の「祭天、崇祖、祀孔」は認められるべきか?

義和団運動は19世紀後半の帝国主義侵略に対する中国人の反発から来ています。そのため運動の標的は外国人や宣教師でした。

しかし、そもそも外国人宣教師が反発の対象になったのはなぜでしょうか?それを理解するには宣教師と清朝との関係を検討せねばなりません。

中国におけるキリスト教布教は明代後半にイエズス会の宣教師によって始まりました。当時のイエズス会は中国で現地適用主義をとっていました。現地適用主義とは中国の事情に合わせたやり方で布教を行うことです。

当時の中国人には「祭天、崇祖、祀孔」と呼ばれる習慣がありました。儒教が根強い中国ならではの習慣です。天を祭り、祖先の命日に供物をし、孔子廟に参詣する習慣です。イエズス会は中国人のキリスト教信者にこれを許していました。

ところが、1704年にローマ教皇庁が方針を変え、現地適用主義を禁止します。これに清朝は反発。康熙帝は外国の宗教を禁止にする布告を発表します。そこには伝統的な儒教をキリスト教が悪い影響を及ぼすとの考えがありました。

しかし、この布告はそこまで厳重なものではありませんでした。何か騒ぎを起こしたりしなければ清朝がキリスト教に対して何か言うわけではなかったからです。フランス人宣教師が教団を作りたいと言っても紛争が起こらない限り許可したケースもありました。

しかし、1858年の天津条約によって事態は一変します。この条約で中国で正式にキリスト教が認められたからです。キリスト教はどんな干渉からも逃れることができるようになりました。

条約上の義務としてキリスト教が伝統を無視したり、変なことをしたりしても、宣教師を保護しなければならなくなりました。

貿易のために訪中している商人もクリスチャンのため、保護される必要が生まれました。もし中国人は宣教師に危害を加えた場合には重い刑罰が課されることになりました。

こうして中国にいるキリスト教信者が特権的な地位を獲得するようになり、中国人はクリスチャンに対して反発するようになりました。

スタイガーは『義和団』にて山西省の例を挙げて、外国人が攻撃されるようになった経緯を述べています。

それによると、

山西省は宣教師以外の外国人に接することはなかったために、山西省の宣教師は現地民から反発を受けることはなかった。しかし、宣教師以外の外国人がやってくるようになると事情は変わった。

スタイガーはさらに続けます。

1898年の冬。鉄道を敷くために予備調査を行うべく数人の外国人技師が登場した。当時は大旱魃の時期。農民たちは春の種まきができないほど少雨だった。中国人はあの見慣れないおかしな測量の機器を使って外国人がやってきたから土地の神様がへそを曲げたとして、反発が高まり、ついには排外運動にまでなった。

このことは外国人宣教師を襲っても、必ずしもキリスト教に敵意を持ったのではないことを示唆しています。

19世紀終盤になると外国人が襲撃の対象になりました。現在の中国の歴史教科書には

少なくとも一部の外国人の酷い振る舞いが農民たちをやむなく抵抗運動に立ち上がらせた。外国人(キリスト教信者)は民家を強制的に壊し、教会を作ったり、その教会が農民を搾取したり、女性に暴力を働いた

と書かれています。これは西洋列強への反発が下から自然と沸き起こったとするために宣教師たちの行動を極端に書いています。しかしこれは実態を正確に反映しているとは思えません。

中国人の西洋人嫌いが直線的に排外運動までに至ったと考えるのは少し単純すぎです。

義和団=排外運動の図式は正しいか?

義和団=外国人排斥運動 の構図は間違いではありません。

ある歴史書には

義和団運動は中国を分割支配しようとした侵略者とその手先の清朝政府に重大な打撃を与えた。中国反帝国支配に力をあたえ、ブルジョワ反革命改革の民衆運動の勃興を引き起こした

と書かれています。

確かに義和団は帝国主義に対して正面から立ち向かいました。しかも義和団にはこれまでの改革の試みになかった下からの動きがありました。

ここでは義和団に関する2人の研究者の研究を見ていきましょう。

2人とも義和団運動が起こった要因を外的ではなく、中国自身の社会経済的要因の方が重要だと考えています。

B.ブリュギエールの研究

B.ブリュギエールは、義和団事件を太平天国以降の農村秩序の崩壊を背景に起こったものと考えます。

清代に起こった加速度的な人口の増加によって生じた貧困化、手工業の壊滅、税金と小作料の上昇、不在地主の増加などは中国の伝統的な農村秩序を崩壊させ、農村の治安が悪化させました。

その結果、農民反乱を恐れた地主が都市に逃げたことで従来の農村社会秩序が壊れてしまいます。

社会不安を抱える人々は呪術に救いを見出し、呪術を使う秘密結社=会党の中に吸収されていきました。これが義和団の起源とするものです。

J.エシェリックの研究

J.エシェリックもB.ブリュギエールと同じような見解を示しています。このエシェリックの本が最も優れた義和団研究とされています。

彼女によると、もしも義和団の発生要因が西洋の経済侵略ならば西洋による経済的侵略が最も深刻だった場所・上海や広東で起こったはず。しかし、実際に義和団が発生したのは山東の西部。そこでは外国人による経済活動は行われていませんでした。

そのため、西洋の衝撃に対する反応として義和団事件を理解するのは適切ではないとエシェリックは言います。これが現在での大方の共通見解です。

これらの研究者が提示した要点は義和団が帝国主義に対する反応であったのと同時に中国自身の社会的経済的要因にも根ざしていたことを示しています。

運動の主体ー義和団

梅花拳から義和拳へ

実際の義和団はその進歩的側面よりも古さの方が際立っていました。19世紀終わりの義和拳がルーツの団体です。

この義和拳は少林寺拳法の流れを引いています。義和拳はさらに少林寺拳法の一派である梅花拳にルーツを持っています。

梅花拳は1898年春に義和拳と改名します。梅花拳のリーダーがキリスト教会を壊しに行こうとする時、揉め事になれば梅花拳の名が廃るので改名したというなんともしょぼい理由。

改名後、義和拳は広く門戸を解放して、多くの弟子を募集します。入る条件も簡単に。名前を書いて叩頭するだけ。ほら簡単でしょ?

義和拳は大衆化し、もう秘密結社ではなくなりました。それに伴って、訓練方法も異様になっていきました。灰を飲み訓練すれば銃弾に打たれても大丈夫!他にはレンガを用いて体を殴るとかしてました。訓練がうまくいけば、刀や槍で突かれてもただ白いあとが残るだけとの教義も生まれました。これが義和団の中心思想「刀槍不入」です。

この集団が農村秩序の崩壊から生まれたたくさんの農民や愚民などを吸収し、成長していきます。

外国人宣教師と教会、穀物の売り締め・買い占めをした地主や高利貸しなどが標的に最初の標的でしたが次第に外国人へとターゲットが絞られていきます。

清朝はこの義和拳を清朝は当然のように憂慮していました。伝統的な儒教的秩序を壊す邪教に見えたからです。しかも、義和拳はヨーロッパ列強との余計な揉め事を起こす可能性がありました。

実際に清朝に対してドイツは早く義和拳を鎮圧せよとの圧力をかけていました。ドイツ軍の出兵を要求した宣教師がいて、その出兵したドイツ軍が農村を焼き払ってしまう事件が発生したからです。

義和拳対外国軍の構造が出来上がってしまいました。

義和団、清朝、そして西洋列強ー三者間の関係

こうして義和拳と清朝、西洋列強をめぐる関係が複雑になっていきます。

当局による「団練」としての公認

自らも外国人嫌いである山東省地方長官が義和拳を「団練」として公認化しました。当局公認の地方的な自衛組織としてお墨付きをえた義和拳は「義和団」となり、扶清滅洋を唱えるようになります。1898年の夏から冬にかけて叫ばれ始めたスローガンです。

100日維新がちょうど失敗に終わったころから、義和団は各地で教会を襲い、電線を切り、鉄道を破壊し始めます。勢いに乗った義和団は天津を占領しました。

英米独仏の4カ国は清朝に対して2ヶ月以内に義和団を鎮圧せよ。さもなくば我々四カ国は共同でこれを鎮圧するだろうと警告します。

当時の西洋人はキリスト教反対の清朝が義和団を支援し、反キリスト運動をしていると思っていました。しかし、西洋人は中国人の敵意がキリスト教だけではなく外国人そのものに向いていることがわかっていませんでした。

力尽くの西洋列強のやり方に中国人はかえって反発していきました。清朝は鎮圧軍を送りますが、義和団に返り討ち。1900年6月、義和団は北京に流れ込んでいきます。

当時の義和団勢力は約20万人。そこには農民と多数のルンペンプロレタリアートが含まれていました。ルンペンプロレタリアートは階級に分類できないような人たちのことです。

西洋列強による武力干渉

義和団は市内に入ると欧米列強の公使館に攻撃し始めました。公使館が攻撃されたため、欧米列強は当然のように反撃に出ます。英米独仏日露伊澳の八カ国合同軍が出兵を行いました。連合軍の兵力は合計で19,700人。そのうち9,750人が日本軍と主力でした。

清朝による義和団の利用

清朝は義和団運動と西洋列強の二つのアクターに対応する必要が出てきました。しかし清朝は対応をめぐって内部分立してしまいます。対外協調派と義和団を利用して列強と戦おうとする強硬派が鋭く対立しました。

和平や戦争か。時の権力者・西太后は迷った末に義和団と手を組み、列強に宣戦布告します。これはどうみても勝ち目のない戦争です。なぜ彼女は勝ち目のない戦争を始めたのでしょうか。

考えられている理由として彼女の元に西洋列強に関するウソの報告書が上がっていたからとされています。

偽の報告書には書かれていたのは以下のよう。

  • 列強は光緒帝を別の場所に移そうとしている。
  • 列強は各地方の税金を代理徴収しようとしている。
  • 列強は清朝政府軍を自らの指揮下におこうとしている。
  • 列強は西太后を引退させようとしている。

この報告書には西太后は激怒。

今日、彼らの方から先端を開いてきた。我が国滅亡は目前だ。譲歩するなら死んでも合わせる顔がない。どの道滅びるなら一戦交えて滅びる方がいいではないか

これを聞いた高官は「死力を尽くして戦いましょう」と答えたとされています。

このころの西太后はアヘン戦争の頃から一部の官僚が唱え始めた「以民制夷」という考え方に強く惹かれるようになっていました。「以民制夷」とは民衆の力で西洋列強に立ち向かおうとすることです。西太后は大衆=義和団を利用して西洋列強にに抵抗しようとしたのです。

一方の光緒帝は戦争に反対しました。伝えられている光緒帝の言葉は

朕一人なら死んでも惜しくはないが、それでは人民が可哀想だ

しかし、この皇帝の言葉は考慮されることはありませんでした。

開戦

清朝+義和団 VS 西洋列強の戦争が始まります。しかし、結果は見えていました。近代兵器で武装した西洋列強が圧倒的優勢だったからです。

しかし「刀槍不入」を唱える義和団は連合軍の近代兵器を恐れることはありませんでした。目の前に大砲があっても逃げません。しかし当然のように連合軍政府が砲撃するとバタバタと倒れていきました。

この戦いに参加した日本軍の砲兵の回想録には

重機を有するもの甚だ少なく、刀を振るうものばかりあれば、くみしやすくありました(訳:近代兵器を用いる兵士は少なく、刀ばかりでクソ雑魚だった)

とのこと。義和拳に勝ち目はありませんでした。近代兵器の前に拳法はあまりに無力。反撃にあった義和団は簡単に公使館の包囲を簡単に解いてしまいます。

劣勢に慌てた西太后は光緒帝を連れ、変装し西安へ逃走しました。のちに西太后はこれを人生最大の屈辱であったと回想しています。

西安に逃げる途中、西太后はなんと義和団を逆賊だと掌返しをします。手のひらくるっくる。清朝軍に鎮圧するよう命令を下しました。初めから戦争に乗り気ではなかった清朝軍はしぶしぶ義和団を潰しにかかります。

西洋列強はここで一気に清朝政府を葬り去ろうとは考えていませんでした。ここで中央政府を潰して国内が混乱したら自分たちが持っている中国での経済利権がなくなってしまうと考えたからです。

結局、列強は義和団が純然たる反乱分子であったとする認識を清朝に受け入れさせます。その結果、義和団はいったん手を組んだはずの清朝から見捨てられ、連合軍と清朝軍の二重攻撃を受けて壊滅していきました。

結果と意義

辛丑条約(義和団最終議定書の締結)

半植民地化の深化

1901年9月、清朝は連合八カ国にベルギー、オランダ、スペインを加えた11か国と条約を結びました。列強は寄ってたかって中国を食い物にしたのです。

この条約によって、清は日清戦争の賠償金を払い終えていないのにもかかわらず巨額の賠償金を払う羽目になりました。

その支払い方式も屈辱的でした。関税や塩税などが外国人による管理となり、その税を財源として賠償金を払わなくてはならなかったからです。中国は1940年までこの税金を支払い続けることになりました。

北京の公使館区域には外国軍隊が駐在することになりました。中国知識人にとってこれがどれほどの屈辱であったか!中国国内で今後外国人を排撃するような事件が起きたとき地方長官は鎮圧する義務も課されました。

ちなみに1937年7月に日中戦争の引き金となった盧溝橋事件もこれと関わっています。日本軍が北京郊外に駐在していたのは、この条約に基づいて駐兵権を獲得していたからです。

この条約は清朝の政治・軍事・財政を強烈に縛り付けるもので中国の半植民地化を決定的なものとしました。

「光緒新政」の始動

屈辱的な条約が結ばれ、清朝は2年前にいったん否定した変法へ舵を取ることを決定しました。光緒帝は中国と西洋の政治軍事を徹底的に比較して、改めるべきところを徹底的に洗い出せと命令します。この後に及んで、光緒帝と西太后が協力し始めました。

光緒新政は結果的に清朝最後の改革の試みとなりました。ペレストロイカを行ったことがソ連の息の根を止めたように光緒新政が清朝の息の根を止めることになるのです。でもその話はまた今度。

日本・ロシアの中国進出

義和団事件は日本と中国進出を加速させました。

日本は義和団事件の鎮圧を主導していました。当時のイギリスはアフリカでの欧亜戦争に手一杯で余裕なく、アメリカもフィリピンでの反米運動鎮圧に手一杯。日本だけが鎮圧を行う余裕があったのです。

当初、日本は不釣り合いな負担を引き受けることに慎重な態度を見せていました。軍隊を派遣する経費もさることながら、中国人の反感が日本に集中することを懸念していましたからです。そこで義和団事件後はロシアともに清朝に対する措置を寛大なものにしようとします。

しかし、そうした努力は大軍を派遣した事実の前には無意味でした。しかも、日本軍は北京のあちらこちらで働いた略奪がさらなるイメージ悪化につながりました。

ロシアも日本に次いで大軍を派遣した国でした。結果的に義和団事件は日露の中国進出を加速させ、義和団事件を皮切りに日本とロシアによる中国の分割競争は次第に熾烈になっていきました。その帰結が日露戦争でした。

まとめ

義和団事件はただの中国の内乱ではなく、清朝に終止符を打つような大きなインパクトを持つ事件でした。西洋列強と清朝の攻撃を受けて義和団は壊滅していきますが、彼らが残したものは清朝の半植民地化だったのです。