金正日への後継と核問題について

金正日への後継と核問題について

金日成は最初から権力を保持していたわけではありませんでした。国内に多くの敵を抱えていたのです。敵を粛清し権力を固めたのは朝鮮戦争が休戦してからでした。

北朝鮮:金日成による主体思想

1955年12月28日 金日成演説

1955年12月28日に金日成は、その後の北朝鮮のイデオロギーの中心となる主体思想の源流となる重要な演説を行います。それによれば

思想活動において教条主義と形式主義を退治して、主体性を確立するために…

 とあり、マルクス・レーニン主義の真理を体得したのちに、それを朝鮮の現実に選択的かつ創造的に適用することが目指されたのです。これを「我々式(ウリ式)社会主義」と言います。

これによって金日成はイデオロギーの国内解釈権を獲得したことになり、金日成の権力基盤が盤石なものになったことが示されました。

金正日・後継体制への移行

金日成は社会主義体制を確保しつつ、息子である金正日への後継体制の移行を周到に準備し始めます。

1973年には党中央委員会書記局書記、1974年には党政治局委員に襲名し、1980年の朝鮮労働党第6回大会では党中央委員、政治局常務委員、軍事委員などのポストに就任しました。

後継者になるために金正日は金日成に対して媚びを売ります。金正日は金日成70歳の誕生日に主体思想塔や凱旋門などを作成しました。

金正日は金日成が死去する20年も前から後継者として、帝王学を学んでいました。その中でも金正日が提示したのが「社会政治的生命体」論です。

社会政治的生命体論によれば、北朝鮮では首領を脳髄、党を神経、人民を細胞とすることで、北朝鮮人民は永遠の政治社会的生命を得ることができます。主体思想に続き、北朝鮮の重要なイデオロギーが生まれました。

首領が一番偉いとして、党の上に首領を抱いているのが北朝鮮のシステムの中では独特です。共産主義体制では党が指導することが基本だからです。首領の教えは絶対なのであって、人民には自由が存在しません。

金正日体制のスタート

金日成の寿命が残り少なくなる中で、金正日は「党中央」として、後継者としての基盤を盤石なものにしていきます。1991年12月には朝鮮人民軍最高司令官、1992年4月には元帥に就任、1993年4月国防委員会委員長となります。

しかし、当時の北朝鮮は非常に厳しい状況に追い込まれていました。冷戦の崩壊によって共産主義国家の後ろ盾を無くしていたからです。

ライバル韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長をとげ、1970年代までは北朝鮮有利であった体制間競争は80年代には韓国が逆転し、ソウルオリンピックの開催によって完全に韓国が体制間競争に勝利します。

北朝鮮は国家存亡の危機に陥っており、韓国との差を縮めようと無謀なテロ事件を次々と起こします。しかし、これらは裏目に出ます。北朝鮮は国際社会からの信頼を失墜させ、国際的に孤立してきました。

その中で1994年7月8日、金日成・国家主席が死去します。金正日は後継者として北朝鮮の国家体制を維持する必要があります。

厳しい状況を乗り越えるために盛んに言われたのが「苦難の紅軍」と「先軍政治」です。かつて抗日パルチザンとして日本軍と戦った「苦難の行軍」になぞらえ、国民に対して奮起を促したのです。

「苦難の行軍」の中で北朝鮮では金正日への後継が行われませんでした。金正日が後継するほどの余裕がなかったと言えるでしょう。しかし、1997年12月には党中央委員会総書記に推戴され、1998年9月には国防委員会委員長として「国家の最高職責」に就任しました。

党創建55周年(2000年10月)には「困難な試練克服」と明言され、「苦難の行軍」から続いた北朝鮮の厳しい国家経営が一旦収束したことが明らかにされました。

現在の朝鮮半島の状態は過渡期?

韓国と北朝鮮は上でも確認したように体制間競争によってどちらの国家に正統性があるのかを争っていました。将来的な統一をどちらが主導して行えるのかが体制間競争によって決まるからです。

韓国も北朝鮮もどちらも「ワンコリアポリシー」を掲げ、どちらもが朝鮮半島における唯一の正統性のある国家だと主張しました。

しかし、体制間競争が韓国の勝利に終わると北朝鮮の側から韓国に交渉していかないといけない状況になりました。

その過程の中で南北基本合意書が結ばれ、現在の分断状態は統一朝鮮を作る中でのパートナーであることを定めています。