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【雪舟&雪村】日本の水墨画の歴史についてがっつりまとめました!

【雪舟&雪村】日本の水墨画の歴史についてがっつりまとめました!

日本への水墨画の定着の歴史について

本稿の概観

本稿では、日本における水墨画の定着について検討する。室町時代に水墨画は本格的に日本社会に登場した。その過程で、雪舟と関東水墨画派が大きな影響力を持った。日本水墨画の黎明期は中国からの影響を多分に受けたものであった。しかし、中国から日本への水墨画の輸入過程には二つの大きく異なる手法ががあったことが確認されている。雪舟と関東水墨画派、それぞれによる水墨画の輸入が日本における水墨画の定着をもたらしたのである。それでは雪舟による水墨画と関東水墨画派による水墨画が、その後の日本水墨画史にいかなる
影響を及ぼしたのであろうか。本稿では史料の読み取りを通じて、水墨画の日本における定着に関して検討したい。

室町時代における水墨画登場への要請

室町時代において、水墨画はその登場、そして、定着を社会的に要請されていたということができる。この要請には鎌倉における禅宗寺院が深く関わっている。鎌倉時代において、鎌倉にある禅宗寺院はその内部デザインを中国風にデザインする必要に迫られていた。というのも、鎌倉幕府は京の朝廷に対して、文化的な優位性を持つことを志向していたからである。文化的な優位を持つことで幕府自ら、幕府への求心力をつけようとしたのである。その中で、鎌倉幕府は中国の文物、すなわち「唐物」を用いて、朝廷への優位性を示そうとした。その一環として、鎌倉幕府が重用する禅宗寺院の内部デザインさえも中国風にアレンジしようとしたのである。では、なぜ「唐物」を用いることで、文化的な優位性を持てることになったのだろうか。それには日宋貿易が大きな影響力を持っている。当時、盛んだった日宋貿易であったが、その中心は京都ではなく、鎌倉であった。当時の先進国である宋=中国の文物が鎌倉に集積していたことは京都への文化的優位性を示すことになったのである。当時の鎌倉に「唐物」が集積していたことを示しているのが、「徒然草(新編日本古典文学全集44) 第百二十段」である。「…。唐土船のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり。…」とある。著者の兼好法師は、鎌倉において「唐物」が多く流通していることを批判的に論じているが、それを含め、鎌倉における「唐物」の充実ぶりが伝わって来る史料になっている。鎌倉には中国の文物だけでなく、中国から禅宗の布教を目的にした中国人の禅僧も多数渡って来ることになる。著名なのは、蘭渓道隆である。蘭渓道隆をはじめとする中国人禅僧を住まわせる場所としても、鎌倉における寺院は禅宗を中心として、再編さ
れるに至ったのである。こうして鎌倉時代における鎌倉禅宗寺院では東班衆が中心となり、寺院も「唐物」によって装飾されることになった。ここで東班衆について述べておく。禅宗寺院において、僧は二つのグループに別れていた。その二つのグループが東班衆と西班衆である。 東班衆は寺院における環境整備を担当していた僧たちのことである。具体的には料理を準備や生活費の管理、院内のデザインを担当していた。西班衆は寺院において宗教的な研究を行っていた僧たちである。具体的には読経を行ったり、儒学の研究を行っていた。 その装飾は単に「唐物」を設置するにとどまらず、寺院の内部デザインさえも中国風にするものであった。その潮流の中で、鎌倉幕府が倒れることになった。南北朝の動乱を経て、幕府は京都の室町に落ち着くこととなったのである。鎌倉から室町へと幕府体制が転換したことは前述の鎌倉禅宗寺院にとって大きな影響をもたらした。京都への文化的な優位性を保つための「唐物」への資金が不足することになったのである。鎌倉幕府の潤沢な資金を背景に、高価な「唐物」を収集していた鎌倉禅宗寺院にとっては、中国風のデザインを維持するに困難となったのである。そこで鎌倉禅宗寺院が目をつけたのが、当時の中国で流行していた「水墨画」である。この水墨画を再現することで、中国風のデザインを寺院内部に表出させることは可能であり、何より資金難に喘ぐ鎌倉禅宗寺院にとって、紙と墨があれば作成可能な水墨画はコストが抑えられるため、都合のよい中国美術品であった。かくして鎌倉禅宗寺院は時代の潮流に飲まれながら、水墨画への目線を強めていくことになったのである。

日本水墨画の黎明と模写

鎌倉禅宗寺院の東班衆から水墨画を模写する禅僧が現れた。当時は日本における水墨画の技法は確立していなかった。そのため、水墨画「後進国」の日本としては水墨画「先進国」である中国の作品を見よう見まねで模写することで、水墨画を輸入しようとしたのである。室町時代前期における日本水墨画の旗手となったのが明兆と周文のような禅僧である。彼らをはじめとする室町初期の書き手が中国の作品を模写することで効率的に中国の技術を吸収できたことは間違いない。しかし、この模写には大きな欠陥があった。その欠陥とは模写を重ねることによる作品の質の劣化である。模写対象の中国の本作からの質の低下は日本水墨画の質の低下をもたらすものだったので、水墨画の画家たちは対応に迫られたのである。

二つの対応策

この日本水墨画の危機に対応したのが、雪舟および関東水墨画派である。しかし、両者の対応には大きな違いがある。雪舟は模写に終始していた日本の初期の水墨画から決別し、風景等を写実的に水墨画に表す手法をとったと言われる。一方の関東水墨画派は祥経に始まる流れである。この祥経から始まる関東水墨画派は初期の模写する技法から発展し、独自の技法を開発した点に刮目すべき点がある。以下では、この二つの流れを確認し、日本水墨画発展の文脈の中での立ち位置を検討したい。

雪舟による水墨画

 雪舟による水墨画の定着の変遷を見る。雪舟が前述の明兆や周文と異なるのは、中国留学を果たした点である。1467年に遣明船に乗船した雪舟は中国の風景を観察する機会を得る。すなわち、水墨画の本場、中国の風景を見ることによって、雪舟は日本での、模写と想像に頼る水墨画から決別した。雪舟自身、 『「半陶文集」6月13日』において次のように語っている。
 「大唐国裏に画師無し。画無しとは道はず、只だ是れ師無し。蓋し泰華衡恒の山となり、江河淮済の水となり、草木鳥獣の異、人物風化の殊、是れ大唐国の画有るなり。しかして其の撥墨の法、運筆の術、これを心に得て手これに応ずるは、我に在りて人に在らず。是れ大唐国の師無きなり。」
 この史料において雪舟は、ただ中国には人々の生活、美しい風景、動植物が存在しているだけであり、それらのものを観察することによって水墨画の技術が向上したと言っているのである。しかし、それを疑問視する見方もある。呆夫良心は『天開図画楼記』に帰国後の雪舟が道釈人物は呉道子や梁楷の風を入れ、山水樹石は馬遠・夏珪の、水墨淋漓雅趣あるものは玉漓の嵐をとり、雲山は高彦敬、水禽三獣は易元吉、花鳥着色は銭舜挙、竜虎蘆雁白鷺は牧谿の画風を取り入れ、これらを自由にこなしていた旨を書いているとの指摘がある。[田
中 2012] これは、雪舟が中国の風景を見たからこそ、水墨画の技量が上達したことを述べる『半陶文集』へのアンチテーゼである。雪舟が参考にしていたとされる画家たちはいずれも中国絵画史に残るような偉大な画家である。雪舟が歴史が作り出した「様式」に習っていたことを主張するのである。前者の雪舟自身の発言であり、発言自体をそのまま受け取ることは危険であろう。後者の引用部分、呆夫良心は雪舟と同じ船で明に渡った僧であり、雪舟に関して、客観的な分析が可能であったと考えられる。雪舟の水墨画技術の向上は一定の模倣の要素が含まれていたことは否定できない。しかし、いずれにせよ日本へ水墨画を輸入した
旗振り役としての雪舟の役割は大きい。その大きな理由に雪舟の日本帰国後の活動がある。雪舟は日本帰国後、中国において獲得した写実的な技法を日本の風景に適用させることで日本における水墨画を「大成」させる評価を得ることとなったのである。

関東水墨画派による水墨画の定着

 本段では、関東水墨画派による水墨画定着の変遷をみる。関東水墨画派の源流は鎌倉にある建長寺の禅僧である祥啓に求めることができる。祥啓は明兆や周文の流れを受け、中国水墨画の模写を行っていた。しかし、室町幕府の同朋衆・芸阿弥に弟子入りすることが祥啓にとっての転機となった。同朋衆とは幕府に仕える役人集団のことであり、とりわけ美術品の収集、管理を担当していた。芸阿弥も同朋衆の一人として、美術品の管理を担当していた。その芸阿弥に弟子入りした祥啓は幕府が収集する一級品の美術品を閲覧する機会に恵まれたのである。その結果、祥啓は中国皇帝の御用絵師である夏珪の水墨画技法を会得するに至っ
た。美術品の中に、夏珪の作品があったのである。最高水準の水墨画の描写技術を得た祥啓は多くの弟子を生むことになった。
 祥啓の弟子たちは主に関東地方に散らばり活躍した。こうして関東水墨画派が形成された。代表的な祥啓の弟子に性安がいる。性安は常陸国の佐竹義人に招かれ、同地での創作活動に励むことになった。佐竹義人は花鳥画などを楽しむ風流人であり、自らも絵事を嗜んでいたことが確認されている。[小川 2004] そうした佐竹義人の性分が佐竹氏の周辺に多くの画家を産む土壌を用意したと考えられる。こうして佐竹氏周辺には多くの水墨画派の画家が生まれることになる。その中で一家を成したのが、雪村である。祥啓より続く関東水墨画派は本元の祥啓の技法を受け、中国を意識した画題を採用してきた。これには佐竹氏には儒学の素養があり、中国文化との関係性も強かったことも影響している。その中でも雪村は中国にまつわるテーマを独自の発想で描いた点は特筆すべきである。そのため、雪村は「竹林の七賢」や「朝三暮四」などの中国古典の故事を題材に取ったが、その描き方は従来の中国故事の解釈、描写方法とは全く異なるものであった。「奇想の画家」雪村の存在は、後世にも大きな影響を与えた。明兆、周文に始まる中国水墨画の模写や雪舟に始まる写実的な日本水墨画とは一線を画す雪村の自由で奇想天外な発想は水墨画の自由度を広げた点で刮目に値する。江戸時代に描かれた「達磨図」白隠筆は雪舟筆「達磨図 慧可断壁図」に比べ、達磨を
題材した絵画でも、その描き方は白隠の絵の方が自由でよりシンプルな描き方になっている。このように雪村による自由度の高い描写方法は後の時代の描写方法に影響を及ぼしたのである。室町期が続いてきた模写、写実的な描写方法に楔を打ち込み、自由度の高い絵画を雪村が提供したことで水墨画の地平線を広げることとなったのである。関東水墨画派は雪村をはじめとする多くの画家を輩出した点で水墨画の定着に大きな影響を及ぼしたのである。

まとめ

日本における水墨画の定着を雪舟と関東水墨画派の諸画家の2つの道から確認した。そもそも「水墨画」は「中国」という権威を利用した鎌倉幕府と京都の朝廷の文化的な抗争に巻き込まれてしまった。そのため、水墨画は日本の中で「中国」というものが意識されながら、創作活動が行われたのである。これにより、日本の水墨画に「中国」の要素が混ざり合うことになる、いわゆる美術分析の概念である「和の中の漢」の様相を程することになった。一方で、この日本水墨画における「中国」は日本の画家たちの中国への「ロマンチシズム」に由来するものであると指摘する意見もある。[田中 2012]しかし、いずれにせよ「中国」という要素によって、日本文化の相対化が測られたため、鎌倉室町を中心とする日本中世は、日本文化の「転換点」になったことは確かである。この中世における「転換」がいかなる文脈で前の時代と後の時代を結んでいるのかについての検
証は今後の課題となるであろう。

参考史料・参考図書

[田中 2012]:「日本美術全史 世界から見た名作の系譜」田中英道 講談社
[小川 2004]:「常陸時代の雪村」小川知二 中央公論美術出版
「徒然草(新編日本古典文学全集44) 第百二十段」
『半陶文集 6月13日』
「達磨図」白隠筆
「達磨図 慧可断壁図」雪舟筆