ヒトラーの思う壺!?英仏の宥和政策から第二次大戦の始まりまでを解説!

ヒトラーの思う壺!?英仏の宥和政策から第二次大戦の始まりまでを解説!

この記事では第二次世界大戦前夜の国際政治についてまとめています。ドイツで成立したヒトラー政権は一見平和外交を進めますが、実際には戦争への準備を着々と進めていました。しかし、イギリスとフランスはそのヒトラーの準備に気づくことなくヒトラーに対して宥和政策を進めます。

今回はこの宥和政策から第二次世界大戦の始まりまでの歴史を解説していきます。

宥和政策の形成

まずはどのように宥和政策が作られていったのか。ドイツとイギリス、フランスの動向を中心にお話していきましょう。

ラインラントからミュンヘン

1930年代になるとフランスは内政の混乱もあり、外交戦略が迷走を始めます。1935年にイタリアとソ連と条約を結び、ドイツの脅威に対抗したはいいものの、1936年にはマジノ要塞を建造します。どうすれば戦争を回避できるのか?どうすればヒトラーを刺激することなく戦争を回避できるのか?に執拗に拘った結果のマジノ要塞でした。

当時、パリに駐在していたイギリス大使は当時のフランス外交を評して以下のように述べています。

フランスは極端に慎重な政策に引き篭るようになった。同国は軍事的冒険のにおいのする武力を伴った手段のすべてに反対している

フランスは経済不況と内政の混乱が続く状況でどうしても戦争を回避したいと考えますが、ヒトラーの膨張主義がフランスの不安をさらに駆り立てます。

ヒトラー率いるナチスドイツは1936年にラインラントに進駐し、ヴェルサイユ条約で定められたラインラント非武装条項を破ります。

さらに1936年にスペイン内戦が勃発すると独裁政権であるフランコ政権を承認し、フランコ政権に大量の武器を供与しました。スペイン内乱を利用してヒトラーはドイツ製の新型武器の実験をしたのです。

さらに1936年に「ローマ=ベルリン枢軸」を作り、イタリアとの軍事的な結びつきを強めると1938年にはついにヒトラーは国防軍最高指揮権を掌握します。

それまで自らの親衛隊と突撃隊しか配下に収めていなかったヒトラーが国防軍最高指揮権を掌握したことでヒトラーの一令により戦争を始めることが可能になりました。

この後に及んでもフランスは戦争には消極的でドイツに対して対抗する姿勢を見せませんでした。

イギリスもまたドイツの膨張に対して非常に消極的な姿勢を見せています。当時のイギリス陸軍大臣は駐英ドイツ大使に

イギリス国民はドイツがフランスを侵略する場合にはフランスのために戦う覚悟があるが、先日のラインラント占領を理由として武力に訴えることはない。…イギリス国民の大半はドイツがドイツ領を再占領することについて全く構わないとの立場をおそらく取るであろう

と述べ、ドイツのラインラント進駐を認めるような発言をしています。しかしドイツのラインラント進駐は明白なヴェルサイユ条約違反。これを英仏が静観したことでドイツは武力による現状変更をしても咎められないとの認識を持つようになりました。

ドイツの膨張主義が加速する中でイギリスでは保守党・ウィンストン=チャーチルが軍備拡張を決断しないスタンレー=ボールドウィン首相を批判します。それに対してボールドウィン首相は次のように応えています。

仮にも私が国民に向かって、ドイツが再軍備を行っているから我が国もそうすべきだと主張したところで、この平和的民主主義国家において、誰が当時その呼びかけの結集しただろうか。私の見解では、これ以上選挙での敗北を確実にする主張はないように思うわけであります。

イギリスの政治家もまたこの不況期に軍拡を行うことは国内政治からの観点からも不可能と言っていい判断でした。

自信満々で膨張を続けるヒトラーも実際は綱渡り的に事を進めていました。特にラインラント進駐はドイツ軍が貧弱な装備しかなかったこともあり、ヒトラーにとって大きなギャンブルでした。

アメリカの著名な国際政治学者であり国防長官も務めたヘンリー=キッシンジャーも著書『外交』で以下のように述べています。

ラインラントの再占領はヒトラーにとっては大胆な賭けであった。徴兵が開始あれてからまだ1年も経っていなかった。ドイツ軍には戦争を行う準備など出来ていなかった。事実、非武装地帯に進駐した小規模な部隊はフランスが介入する兆候が見られたら戦闘しながら撤退するよう命じられていた

また当時のドイツ軍人・ハインツ=グーデリアン独将軍も

もし、1936年にフランス軍がラインラントに進軍すれば、我々は敗北し、ヒトラーは失脚していただろう

と述べています。さらに極めつけはヒトラー自身の言葉です。

ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。もしフランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった

しかし国際社会はこのラインラント進駐をみすみす逃し、ヒトラーに膨張を許す時間と勇気を与えてしまいました。ヒトラーとしても戦争をする姿勢を見せることで勝手に国際社会が譲歩してくれるため、いくらでも駄々をこねることができました。

ヒトラーが巧妙だったのは軍拡をしつつも平和的な外交を見せたため。以下のような発言からもいかに周辺国がヒトラーに騙されていたのかがよくわかります。

ヒトラー氏は犯罪の意図を示す発言を一方で(平和の象徴たる)オリーブの枝を差し出す発言も行っており、これは額面通りに受け取らねばならない。こうした発言はおそらくこれまでに示された最も重要なジェスチャーであることが判明するだろう。…こうした発言を不誠実なものというのは怠慢である。問題は平和であり防衛ではないのだ

アーサー=グリーンウッド労働党下院議員、1936年3月下院演説

我々の政策は依然として国際協力によって世界の軍備制限と削減を追求するものである。それは国際連盟規約の下での我々の義務であり、また軍備競争を防ぐ唯一の手段である

イギリス内閣の声明

チェンバレンの外交戦略

当時のイギリスの首相はネヴィル=チェンバレン。彼はイギリス国内の不況に対応すべく軍備拡大には消極的でした。そのため戦争回避に全力をあげ、イタリアやドイツとの宥和を目指し、その要求を飲む事しか考えていませんでした。

イギリスの安全さえ確保できれば他の国が膨張しようが関係ない。このような彼の内向き主義がイギリスをより不安定にさせたことは間違いありません。イギリス軍が軍拡をできないなら同盟によって安全を確保することは誰にでも思いつくこと。でもチェンバレンはそれができませんでした。アメリカとソ連が嫌いだったからです。チェンバレンの米ソ嫌いを示す発言をご紹介しましょう。

アメリカ人からは言葉以外何も期待しないことがいつも最善であり最も安全である

私はロシアに対して極めて強い不信感を抱いていることを告白せねばならない

このようなネヴィル=チェンバレンに対して、当時のイーデン外相はイギリス自らが国際法と法の支配の価値を重視し、国際社会に対して模範を示すべきであると主張します。しかし、チェンバレンはイーデンの諌言に耳をかさず、イーデンを批判します。

アンソニー、君は次から次へと好機を見逃しているではないか。もうこれ以上、そのような真似はさせない

チェンバレン首相のイーデン外相批判、1938年2月

この言葉を聞き、イーデンは外相を辞任します。

以上のチェンバレンとイーデンの対立のように当時のイギリス政府内では大きな論争がありました。それはドイツは本当に戦争するつもりがあるのか?というもの。そのイギリス国内の混乱を見て、ドイツは戦争へと舵を切ります。「ホスバッハ覚書」では具体的にイギリスの姿勢に言及しています。

ドイツ政治の目標は民族集団の維持と増大とであり、したがって、生存圏の問題が重要になる。…戦争勃発に備えて我が国の政治的・軍事的状況を改善するべきであり、そのためにはチェコスロバキアとそして同時にオーストリアを打倒することが我々の第一の目標でなければならない。その目的は西方への進撃という自体が起こった場合に、側面からの脅威を除去しておくことある。…英帝国は諸々の困難を抱えている。またイギリスは長期的ヨーロッパ戦争に巻き込まる可能性を怖れている。こうした点はイギリスが対独戦争に介入しない歯止めとして決定的に作用する

ボスバッハ覚書(1937年11月)

ヒトラーはイギリスが戦争に介入しないと踏み、国防大臣のブロンベルグ、陸軍最高司令官のフリッチュ、海軍最高司令官のレーダー、空軍最高司令官のゲーリング、外務大臣ノイラートに侵略計画を開陳。戦争が刻一刻と迫っていました。

オーストリア併合とその後

まずヒトラーは手始めに1938年3月にオーストリアを併合します。オーストリアはヒトラーの出身地。オーストリアを併合することはヒトラーにとって非常に重要なことです。ドイツ出身でないヒトラーがドイツのリーダーとなることに正統性があるのかをめぐり論争があったからです。オーストリアはドイツと文化的にも言語的にも非常に似通った地域。ドイツで圧倒的支持を得るナチスが併合することは簡単でした。

ミュンヘン会談と平和の幻想

ミュンヘン会談はその後の国際政治の展開を考える上で非常に大きな転換点になりました。ここではミュンヘン会談について検討します。

スデーテンラント問題

ヒトラーはチェコスロバキア国内のドイツ人保護の問題について提起します。チェコスロバキア内に住むドイツ人の人権が弾圧されているとの理由からチェコスロバキアに武力侵攻をチラつかせます。

これに対してチェンバレン英首相は

遠い国の我々が何も知らない国民の間の争い

として介入しない姿勢を見せます。しかし少数ながらも存在した対独強硬派の提言によりミュンヘンで会談を行います。第二次世界大戦を引き起こしたとして名高いミュンヘン会談の始まりです。

ミュンヘン会談と「名誉ある平和」

1938年9月にヨーロッパ主要国の首脳がミュンヘンに集まり、ヨーロッパの国際秩序について会談を行います。

そこでヒトラーは延々と自らの平和を希求する思いを述べ続け、ズデーテンラントが最後の領土的主張であるとの各国首脳に宣言します。この胡散臭い話を真に受けたチェンバレンはヒトラーの主張を全面的に書き込んだミュンヘン協定に署名してしまいます。

ミュンヘン協定の内容を一部抜粋すると以下のよう。

ドイツ、イギリス、フランス、イタリアはズデーテン・ドイツへの割譲についてすでに基本的に到達されている合意を考慮し、同割譲の諸条件および態様、および割譲後に採用されるべき措置について合意し、かつ、本協定によりドイツ、イギリス、フランス、イタリアはその実現を保証するために必要な諸措置にそれぞれ責任を持つことに合意した。第1条 引き渡しは10月1日から開始される

これを受けてチェンバレンは寝ぼけたように

我々の時代の平和は確保された

と述べますが、一方のチャーチルは

歴史上最悪の敗北

と述べました。チャーチルはヒトラーには戦争をする意思があることをはっきりと見抜いていました。ヒトラーが獲得に成功したズデーテンラントはドイツにとって戦略上の要衝。ドイツはこの地域を得る事で中東方面からの資源を確保するルートを確保することに成功したのです。ズデーテンラントを確保したことでドイツは戦争をする最後の準備が整ったのです。

ヒトラーの側近・ゲッペルスは以下のように述べ、騙され続けたイギリスとフランスを嘲笑っています。

現在まで我々はドイツの真の目標が敵に察知されないようにすることに成功してきた。…1933年にフランスの首相はこのようにいうべきであった。(そしてもし私がフランスの首相であったならば、私はそう言っていただろう)すなわち「この新しい帝国の首相は『我が闘争』を書いた人間である。その本は様々なことを示している。この男が我々の近くにいることは耐えられないことである。彼が消え去るか、我々が進撃するかのどちらかである!」しかし彼らはそうしなかったのである。彼らは我々を放っておき、我々が危険地帯から脱出することを可能にした。そして我々はすべての危険な暗礁地帯をうまく航海することができたのであった。その結果、我々の準備が整い、彼らより優れた軍備を整え終えたとき、彼らは戦争を開始したのであった!

第二次世界大戦への道

チェコスロバキア危機からポーランド危機へ

ヒトラーはズデーテンが最後の領土要求との約束を反故にし、チェコ本体も併合します。1939年3月にはチェコスロバキアを解体し、スロバキアを植民地同然の扱いとします。

ここに来て初めて英仏はヒトラーが平和ではなく戦争を志向していることに気付きます。東欧世界を手中にしたヒトラーはソ連への侵攻を狙い、ポーランドへの侵略計画をぶち上げます。

独ソ不可侵条約

しかし、ドイツはソ連侵攻を計画しつつ1939年5月には独ソ不可侵条約を結びました。共産主義を敵視するヒトラーが一転してソ連と条約を結んだことに世界は衝撃を受けました。この背景にはソ連が1939年5月に戦っていたノモンハン戦争の教訓がありました。ソ連軍精鋭部隊は日本とのノモンハンでの武力紛争を通じて大きな被害を被っていました。ここでドイツに侵攻されては対抗できないと考え、ドイツと同盟を結ぶことにしたのです。

ドイツとしてもソ連に侵攻すればイギリス・フランスが参戦することは必至。東西の二正面作戦を戦うのは避けたかったのです。

ドイツのポーランド侵攻

ついに1939年9月1日、ヒトラーがポーランドへの侵略を開始しました。ヒトラーは建前としてポーランド国内のドイツ人の人権を守るためにポーランドを侵略します。

ポーランドにはドイツの侵略を止める手段がありません。ポーランドとドイツの間には不可侵条約が結ばれ、その不可侵条約をポーランドが全面的に信頼していたからです。ポーランドの軍備が弱いところにドイツが侵略をすればたちまちポーランドは敗勢となります。

これを見たイギリスとフランスはようやくドイツに対抗する気持ちを固めます。1939年9月3日、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告をします。いよいよ第二次世界大戦が始まりました。