【書評】『ヒトラー演説』(中公新書)-「ヒトラー演説」の理解は全体主義的か。

【書評】『ヒトラー演説』(中公新書)-「ヒトラー演説」の理解は全体主義的か。

この記事は『ヒトラー演説』(中公新書)を読んで書いたものである。

日本人にとってヒトラー演説のイメージは一様なのではないかと感じる。そのイメージとは猛々しい金切り声を上げてドイツ民族の復興を高らかに宣言するヒトラーとそれを取り囲み熱狂するドイツ人のイメージであろう。

しかし『ヒトラー演説』ではその日本人の「全体主義的」なヒトラー演説のイメージを実証的に破壊する。歴史的な文脈を踏まえつつ実際のヒトラー演説を言語学者の立場から修辞技法や語彙分析を通じて明らかにする。

その中で浮かび上がったのは時代によって変容するヒトラー演説の真実であった。まさに副題にあるように「熱狂の真実」はどこにあるかを探る本となっている。

本書からわかるのはヒトラーによる演説は年代によってその目的を変化させていたことである。本書の対象はナチ党の結党からヒトラーの総統就任、第二次世界大戦へと続く1920年代から40年代にかけてである。各章のタイトルが簡潔に時代時代のヒトラー演説の特徴を表現しているので抜粋してみよう。

  • 第1章 ビアホールに響く演説
  • 第2章 待機する演説
  • 第3章 集票する演説
  • 第4章 国民を管理する演説
  • 第5章 外交する演説
  • 第6章 聴衆を失った演説

ヒトラー演説はまずは全体主義的国家を作り出すのに有用であった(序章〜第3章)。戦争直前から戦中にかけては演説を通じた国民管理、すなわちヒトラーの演説を国民全員が聞かなくてはならないとの建前の元、国民へのラジオが配布され、国民管理が容易になった(第4章)。

その一方でヒトラーは戦争へと一目散に進んだのではなく、まず平和攻勢をかけることで自らに有利な軍事バランスを作り出そうとした。ミュンヘン会談でのヒトラー演説の欺瞞は特に有名である(第5章)。

戦時に突入するとヒトラーの演説は急速にその力を失う(第6章)。ヒトラーの心身不健康や暗殺の恐れから演説がそれまでの高頻度で行われなくなったからである。ヒトラーの演説家としての退場は国民からの不信を買った。それと並行してドイツ軍は連合軍からの攻撃を受け、徐々に敗勢となる。ヒトラーの言葉はかつての熱狂を失った。

ここまでは歴史的な側面から『ヒトラー演説』を振り返ってきた。一方で筆者は言語学者であり、本書には言語学的な分析が豊富に含まれている。私はその是非を論評する立場にはないが、一点言えるのはヒトラーはジェスチャーだけではなく、演説の目的にしたがって、実際に用いる語彙を変更させたり、修辞法を巧みに使い分けていたということである。ヒトラー演説は全時代を通じて一貫したものではなく、むしろ時代背景や聴衆の反応から多分に影響を受けていたのである。

しかし、われわれのヒトラー演説への理解はどうであろうか。ヒトラーの演説技術はすごい。ヒトラーは演説の天才だ。そのような印象で止まってはいないだろうか。確かにそのような側面もある。しかし、その一方で、ヒトラーが逮捕された時にはオペラ歌手の指導を通じて演説のアップデートを行ったり、終戦間際には心身疲労に伴う舞台からの退場によってヒトラー演説が意義を失っていたこともまた確かである。

ヒトラー演説が今、見直されるべきなのは緊急時における指導者の役割と重ね合わせて見ることができる。歴史的評価の是非は置いておきつつもヒトラーは第二次世界大戦という緊急事態に自らの言葉で語ることをやめてしまった。演説に頼る動員方法を駆使してきたヒトラー・ナチスにとってヒトラーの演説は政権運営の頼みの綱であった。その演説が行き場を失った時、ドイツ大衆はナチスへの支持を失った。

現在、世界各国では新型コロナウイルスとの「戦争」が続いている。この緊急事態に指導者が何をどのように語るのかは非常に重要だ。もしヒトラーのように自らの言葉を捨てれば、国民は混乱する。かといって指導者が語る言葉を大衆的熱情を持って信奉することも社会不安を深めるだけに終わる。

緊急時に指導者がどのように語るのか/語らないのかを見極めつつ、冷静な政治的議論が行われることを願って筆を置くことにする。なお最後に印象に残った本文を抜粋することにする。

国民を鼓舞できないヒトラー演説。国民が意義を挟むヒトラー演説。そしてヒトラー自身がやる気をなくしたヒトラー演説。このようなヒトラー演説の真実が我々の持っているヒトラー演説のイメージと矛盾とするとすればそれはヒトラーをカリスマとして描くナチスドイツのプロパガンダに80年以上たった今なお我々が惑わされている証であろう。 

本文P262