全体主義の起源とは?ヒトラー&ムッソリーニの政治を解説

全体主義の起源とは?ヒトラー&ムッソリーニの政治を解説

この記事では1920年代から30年代にかけてのドイツとイタリアの国際政治について解説しています。この時期の両国ではヒトラーとムッソリーニが独裁者として君臨し、膨張主義的な政策をとっていました。その結果、第二次世界大戦が発生しました。

しかし、同じように見えるヒトラーとムッソリーニも当初は対立していました。なぜ彼らが未曾有の大戦を招く結果を共にもたらすことになったのか。彼らを取り巻く国際政治を見ていきましょう。

ヒトラーの台頭

ヴェルサイユ体制の衰退

国際協調を主張していたドイツ二人の指導者の死がヒトラーの台頭につながります。その二人の指導者とはシュトレーゼマン(1929年)とヒンデンブルグ(1934年)でした。保守派の大物であった二人がかろうじて守っていたドイツ政治の安定が崩壊し始めます。

世界恐慌はドイツ政治の混乱に拍車をかけました。世界恐慌に中道右派と中道左派が信頼を失い、人々の不満の捌け口として極左と極右に不満の捌け口が向かうことになりました。そこで台頭したのがヒトラーでした。

1930年から32年にかけてブリューニング内閣、1932年にはパーペン内閣が成立しますがいずれも短命に終わり、ドイツ政治を牽引してきた保守勢力も退潮。ナチス党や共産党が大きく勢力を伸ばします。以下ではこの時期に行われたドイツにおける総選挙の結果を見てみましょう。

1930年の総選挙ー中道勢力の衰退

  • 社会民主党(143議席)
  • ナチス党(12議席→107議席)
  • 共産党(54議席→77議席)
  • 中央党(68議席)
  • ドイツ国家人民党(41議席)
  • ドイツ人民党(30議席)

1932年の総選挙ーナチス党は躍進し最大勢力に

  • ナチス党(107議席→230議席)
  • 社会民主党(143議席→133議席)
  • 共産党(77議席→89議席)
  • 中央党(68議席→75議席)

ワイマール共和国は最も先進的な憲法を持っており、当時の新聞はナチスが議席を獲得しても心配しませんでした。議会や裁判所がチェックすればヒトラーの野心は実現されることはないと考えたからです。

1932年の総選挙でついにナチス党は最大勢力になります。しかし、この段階ではナチス党は独裁政権ではなく、連立政権でした。まだ危機感を持つ人は非常に少なかったのです。

ヒトラー政権の成立

1933年1月30日、ついにヒトラー政権が成立します。過半数を得ていないナチスのヒトラー首相誕生の二日後、総選挙を行い、ナチスは大勝して322議席を獲得。過半数を獲得し、ナチス党による単独政権が開始します。

ヒトラーは政権発足後、早速ユダヤ人、社会民主党員、共産党員への法的保護を事実上放棄。基本的人権を無視したナチスの抑圧的な政治が始まります。

1934年8月のヒンデンブルグ大統領の死後、ヒトラーは首相と大統領を兼任して「総統(フューラー)」へ。ヒトラーの独裁が始まりました。

しかしこの時点ではヒトラーも慎重姿勢を崩さず、すぐに戦争による侵略活動を開始しませんでした。というのも、ナチスはまだ軍隊を支配していなかったからです。この時点でナチスが抱える軍事力はヒトラーの親衛隊と突撃隊のみ。これだけでは大規模戦争は不可能でした。

しかし、ヒトラーは著書『我が闘争』にも書いているように戦争をし続けることが民族の発展のために不可欠であるとの考えを持っていました。

そこでヒトラーは当初、平和外交によって周りの国家を油断させつつ、同時に軍拡を進めます。ジュネーブ軍縮会議を脱退し、強制的な軍縮条項を放棄します。この過程でヒトラーに対する軍部の認識も変容し、ヒトラーに対して歩み寄ってきます。

以下ではヒトラーの外交戦略について詳しく見ていきましょう。

ヒトラーの外交戦略

1933年10月、ヒトラーはドイツを国際連盟から脱退させます。同時にジュネーブ軍縮会議も離脱し、軍備増強へと突き進みます。これらによりヴェルサイユ体制が崩壊していきました。

しかしヒトラーは先述のように平和外交を進めます。将来的な戦争を見据えて、周辺国を油断させ、軍縮させることで自分たちに有利な環境を整えようとしたからです。

戦争を有利にするには自らが軍拡させるだけではなく、周りに軍縮させることも重要です。平和外交を展開することでヒトラーは周辺国の弱体化も狙っていました。

1933年7月にヴァチカンと和解し、1934年1月にはポーランドとの不可侵条約を結びます。ポーランドと不可侵条約を結ぶことでポーランド軍がドイツ国境に展開することがなく、ソ連への侵攻を容易にすることができます。

1935年6月には英独海軍協定締結(対英35%)し、自らが軍縮する姿勢も見せました。イギリスとの戦争はドイツにとって非常にコストのかかることだからです。

このように将来の戦争を見据えて極めて戦略的な外交を展開していきました。このヒトラーの平和外交を見て、周辺国はヒトラーが本気で戦争をすることはないのではないかと思うようになります。最終的にヒトラーは国際協調に進むのではないか。英仏はそんな淡い期待を抱くようになります。

見事に英仏はこのヒトラーの戦略に乗っかってしまいました。当時の英仏は世界恐慌による国内不況が深刻な問題であり、予算は経済対策に回すべきと考えられていため、ヒトラーによる軍縮案は非常に魅力的でした。英仏は次第にヒトラーに宥和的な態度をとるようになります。

実はヒトラーを最も批判していたのがムッソリーニ・イタリアでした。イタリアはドイツの隣国であり、ドイツが膨張することを非常に警戒していたからです。

なぜ当初ヒトラーを批判していたイタリアが最終的にはナチスドイツの同盟国にまでなるのか。今度はイタリアをめぐる外交を確認します。

アビシニア危機をめぐる外交

ムッソリーニの外交戦略

ムッソリーニは第一次世界大戦後、国家ファシスト党の総帥としてファシズム運動を展開していました。順調に勢力を拡大し、1922年にはムッソリーニ政権が成立します。ファシスト党の黒シャツはイタリアの有名デザイナーによるデザインで、若者の憧れの的でした。

第一次世界大戦後のイタリアは領土問題などをめぐって自由主義に対する信頼感が低下し、秩序が重要だとしたファシスト党に人気が集まっていきました。

当初、ムッソリーニは新地中海帝国を掲げて偉大なローマ帝国を復活させることを狙います。しかし、全く実現することができません。次第に彼に批判が集まります。

その一方でドイツではナチス政権が誕生し、イタリアの中には膨張するドイツに対して危機感が充満します。

1934年にはドイツがドナウ川近辺での勢力拡大を画策し、オーストリアとの「合併」の可能性が高まります。これを受けてイタリアは武力でドイツに抵抗する姿勢を示します。

なおオーストリアはヒトラーの出身地であり、文化的にもドイツと同じ。ドイツ帝国を作りたいヒトラーにとってオーストリア併合はまさにファーストステップともいうものでした。

イタリアにとってオーストリアがドイツに併合されるとドイツと国境を接することになり軍事的な緊張感が高まります。

そこで1935年4月に北イタリア・ストレーザに集まり、ドイツの膨張主義に反対する合意を行います。3カ国でヒトラーを押さえ込もうとします。

しかし、実際にはこのストレーザ合意はわずか二ヶ月で崩壊。なぜ崩壊してしまったのでしょうか。

イタリアの地中海進出とアビシニア危機

イタリアはドイツの膨張主義に反対姿勢を見せつつ、自らの目標達成のために自らも膨張的な行動をとるようになります。1935年10月、イタリア軍はエリトリアからアビシニアへと侵攻します。これをアビシニア(エチオピア)危機といいいます。

このイタリアの侵略に対して国際連盟はあいまいな対応しかできませんでした。1935年10月7日、国際連盟はイタリアを「侵略国」とし、経済制裁を発動します。しかし、それ以上の強い対応はできませんでした。

なぜなら英仏政府はドイツとの対抗上、イタリアを自陣に組み込みたかったからです。

しかし、英仏は国際連盟の規範を守るためには集団安全保障上、侵略を行ったイタリアに対して制裁措置を講じる必要もありました。板挟みになってしまいました。

英仏とイタリアは1935年12月、悪名高いホーア=ラヴァル協定を結んでしまいます。イギリスのホーア外相とフランスのラヴァル外相がアビシニア問題の解決をめぐって、秘密協定をムッソリーニに提示します。

この協定ではイタリアの侵略を容認する代わりに停戦を求めるものでした。これは事実上、英仏両国がイタリアの侵略行為を容認することを意味します。

この秘密協定が報道機関により漏洩し、激しい世論の批判を浴びると、英仏両国はイタリアに対して、強硬措置を取らざるを得なくなります。ホーアは批判を受けて、外相を辞任します。

英仏により裏切りられたと感じたムッソリーニはアビシニア侵攻を唯一批判しなかったナチス・ドイツへと接近していきます。

イタリアのアビシニア占領:イタリア軍は1936年5月にエチオピアの首都・アジス・アベバへと進駐し、占領を完成させます。

エチオピアは「イタリア領東アフリカ」となりました。それと同時に国際連盟への信頼は失墜して、さらに独伊接近が進みます。国際連盟に忠実な国家であったアビシニアが国際連盟の無力により武力で占領されたことは国際連盟による平和が張子の虎であることを世界に示す結果となりました。

イタリアによるエチオピア侵略を受けてエチオピア皇帝ハイラ=セラシエ2世は1936年6月30日に以下のように述べています。

それは単なるイタリアの侵略という問題の解決の次元にとどまるものではない。それは集団安全保障に関わる問題である。すなわち、それは国際連盟の存在そのものにかかわるものであり、諸国家によって与えられる国際条約に対する信頼に関わるものであり、そして領土保全と独立に対して与えられたさまざまな約束は尊重され保証されるとする諸小国に対するさまざまな約束の価値にものなのだ

エチオピアは国際連盟の優等生でした。そのエチオピアが武力侵攻され国際連盟は衝撃を持って受け止められた。しかも、英仏がイタリアの武力侵攻を容認してしまっている。国際連盟が十分に対応できないことがわかってしまい、時代が変わります。

ナチスドイツは当初はイタリアや日本よりも慎重姿勢を見せますが、イタリアと日本の行動を見て、ヒトラーは侵略を開始します。

イタリアと日本が侵略しても咎められないことを目の当たりにしたからです。平和の規範が壊されてしまいました。これ以降、世界は第二次世界大戦へと突き進んでいきます。