戦争の始まり…1930年代の国際政治の展開とは?

戦争の始まり…1930年代の国際政治の展開とは?

この記事では1930年代の国際政治の展開について詳しく解説しています。1930年代は紛れもなく第二次世界大戦に向かっていった時代。なぜ第二次世界大戦が起きたのか?それまで作られていた国際協調体制はなぜ崩壊していったのか?現在に暮らす我々にも見逃すことのできない流れがそこにはありました。

国際協調体制の崩壊へ

1920年代後半にかけて、ヨーロッパの平和が各種の条約を通じて復活しました。ロカルノ条約やケロッグ=ブリアン条約がヨーロッパ平和の基礎となると信じられていたからです。

しかし歴史はそうなりませんでした。1930年代に入ると1920年代に作られた平和がいとも簡単に崩壊していったからです。国際協調体制が壊されたのがヒトラーが1933年1月に首相になる前。アメリカと日本が国際協調を壊していったからです。

アメリカは意図せずして、日本は意図して国際協調を壊していきました。以下では崩壊に向かう国際強調の流れを見ていきます。

不戦条約締結後の世界

1928年8月、パリで不戦条約が調印され、侵略戦争を禁止する国際的な合意が見られました。さらには1929年にはドーズ・プランの後継であるヤング・プランによりドイツ賠償問題が落ち着きを見せ、世界から対立の火種がなくなっていったかのように思われました。

事実、これらは1920年代の国際協調体制の象徴であり、イギリスのセシル卿は

現在ほ戦争が起こりそうにない時代は世界史の中でもまれである

と語ったほどです。

しかし、その平和の象徴はあまりに脆弱でした。というのも1931年9月には満州事変が勃発、1933年にはドイツでヒトラー内閣が成立するからです。

日本が1933年に国際連盟から脱退することで国際協調体制は本格的に崩壊します。国際連盟から脱退することで国際連盟は日本の行動に制約を科すことができなくなるからです。くしくも1933年は世界にその名が知られた国際人である国際連盟文化担当事務次長の新渡戸稲造が死去した年でした。

転換点の「1929年10月」

1929年10月にはその後の国際政治の展開を左右する二つの出来事が発生しました。1つはグスタフ=シュトレーゼマン独外相が死去したこと。これによりワイマール共和国の国際協調外交が限界に直面しました。これ以後ワイマール・ドイツは保守化、右傾化が進み、ナショナリズムが強まっていきます。

2つ目はアメリカで大恐慌が発生したことです。これを契機に世界が経済ブロックに分断され、経済的困窮やナショナリズムを背景とした政治が蔓延することになります。

国際協調の経済的基盤

1920年代の国際協調体制の経済的基盤はドーズ・プランおよび1929年のヤング・プランによるドイツ賠償問題の解決とそれによる国際経済体制の安定化でした。この基盤は1929年に勃発するアメリカ大恐慌により崩壊します。

国際協調の経済的基盤は崩れ、各国は保護主義的な貿易政策を推進します。その中で最も苦しんだのが経済体制が脆弱なドイツと日本でした。両国は経済的困窮を打破することを目指して、侵略的な対外政策を準備することとなりました。

世界恐慌の勃発

アメリカ大恐慌の勃発

1929年10月、ニューヨーク株式市場の大暴落を契機に、アメリカで大恐慌が勃発しました。株価の急落によりデフレと減収減益、倒産と失業へとつながっていきました。

1920年代のアメリカのバブル経済は崩壊し、アメリカのヨーロッパへの経済支援と資本提供はストップします。ドイツ経済を支えていたドーズ・プランも同時に終了しました。

戦間期の国際経済体制はドイツ賠償問題に関与するアメリカの経済力がヨーロッパと連動することが大前提。ヴェルサイユ条約の批准拒否以後の10年間、緩やかにヨーロッパへの関与を深めていき、とりわけ経済面ではドーズ・プランとヤング・プランによりドイツ賠償問題解決への重要な貢献をしていました。

ところが1929年のアメリカ大恐慌勃発以後、アメリカ外交は孤立主義化が進みます。経済面では保護主義が強まり、安全保障面ではヨーロッパ大陸やアジア大陸への不介入の姿勢が強まっていました。平和の前提には安定した経済が必要であることをまざまざと実感させられます。

ヨーロッパの大恐慌

アメリカの大恐慌はヨーロッパにも波及してきます。その中でも最も大きな影響を被ったのがアメリカの借款で賠償問題を一時的に解決していたドイツでした。

1931年にオーストリア最大の銀行(クレジット・アンシュタルト)が倒産すると、ドイツにまで影響が及びます。イギリスからの短期資本さえもドイツへと流れなくなりました。なかなか問題は解決せず、社会不安が大きくなります。1930年代には失業すると収入がゼロになる時代でした。

結果、社会不安と経済的苦境から中道政党により構成される政府へ批判が強まり、より攻撃的な対外政策を主張するナチス党への国民の支持が広がっていきました。

ナチスは徹底的に共産党を叩く戦略を取ります。それに加え、大恐慌による分断を乗り越えるために保護主義的な貿易政策を出すようになりました。自由貿易はアメリカとイギリスが搾取するだけのシステムであると喧伝されました。

世界経済の危機と苦悩

世界経済のブロック化

大恐慌による苦境を乗り越えるために各国政府は関税率をあげて、保護主義的な貿易政策を採ることにより、国内産業の保護と雇用の確保を図ります。アメリカやイギリスなどでブロック経済化が進み、日本もまた東アジアで独自の経済ブロック形成を目指します。

国際協調体制の崩壊

世界恐慌の勃発は国際経済体制の崩壊を招き、経済ナショナリズムを勃興させました。世界恐慌は第二次世界大戦の大きな原因として考えられています。

世界経済と平和の問題は密接不可分で、自由貿易体制が1920年代の国際協調体制を支えていました。しかし、世界恐慌などで世界の中で経済のブロック化が進むと日本やドイツは「修正主義国家」として次第に第一次世界大戦後の国際秩序を自らに不利なものと考え始め、それに対する批判を強めていきます。

日本では近衛文麿が「英米本意の平和主義を排す」と第する論文を刊行し、これが軍部を中心に広く読まれ、英米中心の世界システムに対する不満が高まりました。

ドイツではヴェルサイユ条約を不当なものと考えはじめ、世界恐慌によって経済的苦境に立たされると協調外交への不満が強まっていきます。次第に議会は共産党とナチス党の二つの政党が多くの議席を占めるようになりました。

満洲事変と国際連盟の限界

満州事変の勃発

1931年9月18日、中華民国奉天郊外の柳条湖付近で突如南満州鉄道の線路が爆発しました。日本の関東軍による自作自演であったものの、当初関東軍はこの爆破を中国人によるものとして満洲一帯に関東軍が進駐します。

しかし日本政府もこの爆破が関東軍の自作自演であると断定できないほど、関東軍による独自の軍事行動でした。

いずれにしても爆破事件が起きた時点では日本政府は中国を批判し、自衛的措置を開始しました。当初、国際社会は日本の行動を表明。当時の国際法では自衛的な措置が容認されていたからです。

国際連盟は事態の収集後に関東軍に現状復帰を要求しますが、日本軍は満州から離れた北京郊外に空爆を行うなど膨張行動を止めることはありませんでした。日本は鉄道爆破には関係ない民間人を殺害したことが国際社会の明るみに出ると多くの欧米諸国が日本を批判します。

満州事変は日本が国際協調を支えた二つの条約を無視したことを意味します。その二つの条約とは1922年ワシントン条約と1928年のパリ不戦条約です。

日本が武力を用いて現状変更を起こしたことで、ワシントン条約と不戦条約の二つの条約が意味のないものであることがわかってしまいました。

満州事変を契機として、日本、ドイツ、イタリアなどの修正主義諸国は国際協調の精神を崩壊させて、次第に軍事力を用いて自らの主張を貫徹させる傾向が強まっていった。国益に拘泥する国が増えることで外交による歩み寄りが難しくなります。

満州事変をめぐる欧米諸国の動向

満州事変に対して中国が反論し、激しい反日キャンペーンを行います。徐々に国際社会も中国の主張に同情的にり、徐々に日本の陰謀論説が考えられるようになります。

これを受け、国際連盟はイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団が結成されました。その報告書であるリットン報告書は国際連盟規約第16条の制裁適用を回避して、経済制裁の実施を伴わない方針を決定します。

唯一の対処はアメリカのスティムソン国務長官による満州事変後の領土変更を承認しないという不承認政策のみでした。

世界恐慌からの回復に苦しむ国際社会は大国・日本に対して断固たる措置をとれなかったのです。

国際政治学者のE.H.カーは日本の行動が国際協調体制に基づいた平和を破壊することを悟り、国際政治の潮流が変わり始めたことを示唆しています。

日本の満州征服は第一次世界大戦後の最も重大な歴史的、画期的事件の一つであった。

世界全般について見ると、それは第一次世界大戦後の終結以後少なくとも露骨な形で現れなかった『権力政治』への復帰を予告するものであった。平和体制の成立以来初めて、戦争が広範な範囲にわたって行われ、広大な領土が征服者によって併合された

このようにE.H.カーは日本の行動が協調的な国際社会に完全に終止符を打ったことを見抜いていました。実際に軍事力で領土を広げることは国際連盟でも認められていませんでした。

各国のエゴイズムが過剰に肥大化し、国際協調体制は壊れていきます。満州事変の重大さは日本の中であまり理解されていないようです。

しかし、この事件は世界全般で見ると『権力政治』への復活を予告するものであり、国際法や国際協調を無視して武力を用いて現状変更を行った日本の責任は大きく問われる事件でもありました。

まとめ

世界恐慌と満州事変により国際的な協調体制が終わり、世界は第二次世界大戦へと向かっていきます。いかに国際協調と自由貿易が戦争を防ぐために重要であるかがわかります。

この記事は以下の本を参考に作成しています。