第1回 戦後日本政治をわかりやすく解説!【吉田ドクトリンから保守合同まで】

第1回 戦後日本政治をわかりやすく解説!【吉田ドクトリンから保守合同まで】

戦後の始まり 

ポツダム宣言を受託することで日本の戦後は始まります。しかし、ポツダム宣言を受託するまでには幾多の困難がありました。

1945年における最高戦争指導会議でポツダム宣言を受託するかの意見は分かれます。「国体護持」すなわち天皇が統治権を有する政治制度が宣言受託後も維持されるのかが焦点になりました。

紛糾した会議は結果的に「御前会議」によって決断がされることになります。「御前会議」では超法規的な措置として、天皇の聖断によるポツダム宣言を受託することが決定されました。1945年8月14日のことでした。

戦後、GHQによる間接統治が始まります。GHQが日本政府に指令を出し、日本を統治させたのです。このシステムはSWNCC(スウンク=国務・陸軍・海軍三省調整委員会)が起草した「降伏後における米国の初期対日方針」のもと、決定されていたのです。

日本はGHQによって「上からの民主化」が実現していきます。まず、極東軍事裁判によって戦争犯罪人の摘発と公職追放を行い、「五大改革」が実施されます。「五大改革」とは「女性解放」「労働者権利保障」「教育民主化」「圧政的諸制度の撤廃」「経済の民主化」のことです。これ加えて、財閥解体と農地改革も断行されていきます。

もう一つの大きな戦後改革の柱が「新憲法制定」です。戦後すぐにGHQによる「憲法自由主義化」の指示がなされていました。日本政府は憲法改正に積極的ではありませんでしたが、渋々「松本案」を提出します。

しかし、これをGHQは拒否します。GHQは同時に、マッカーサー3原則を提示しながら、マッカーサー案を提示します。マッカーサー3原則とは、①天皇は元首とする ②戦争放棄、軍備不保持 ③封建制の撤廃です。

結果的に、民間団体が提出した「天皇象徴案」などの諸提案を内包しながら、両議院での修正を経て、新憲法は制定されました。その「新憲法」=「日本国憲法」において、象徴天皇制によって天皇主権は明確に否定されます。国民主権も明確になったため、国体は護持されませんでした。

独立と吉田ドクトリン 

1952年のサンフランシスコ講和条約で日本の法的にも独立が決定します。同時に結ばれたのが、日米安保条約です。これによってアメリカ軍の駐留は認めながら、GHQの撤退が決定します。この時の考え方を「吉田ドクトリン」と言います。 

新憲法で定められた平和主義。しかし、周りを見てみれば冷戦状態。その2つのファクターの中で当時の首相、吉田茂は葛藤します。平和主義と冷戦の中道を行く「吉田ドクトリン」が戦後日本の主流になるのです。

「吉田ドクトリン」は、①対米協調 ②軽武装 ③経済重視を原則とし、戦後日本が復興する中での基本の考え方になっていくのです。

保守合同 

戦後日本では、保守勢力が分裂をし、統治には歪みができていました。財界からも保守合同への要請が強まっており、吉田の退陣にともなって、保守合同は成立します。日本民主党と自由党が合同して1955年に自由民主党が成立したのです。

これを55年体制と呼び、自民党の一党優位体制をもたらしました。実態は社会党との二大政党制のような感じでしたが、社会党が政権交代を狙っていなかった以上、自民党の一党支配体制ということができます。

以降、自民党は一貫して、政権を保持し続けます。これは党内において、人事システム(年功序列型)がしっかりしていることが要因とも言われています。