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第二回 戦後の日本政治をわかりやすく解説!【60年安保から55年体制の崩壊まで】

第二回 戦後の日本政治をわかりやすく解説!【60年安保から55年体制の崩壊まで】

60年安保 

56年就任の岸信介首相のもと、51年の日米安保条約における日米の片務性を是正するために改正を目指します。これが「新安保」です。国民的な関心を得て、安保闘争にも発展していきますが、60年に「新安保」は採択されます。その後、岸は辞任。安保採択後、社民党は分裂してしまいます。図らずも、自民党に有利な政局になっていきます。その中で池田勇人が総理就任して、所得倍増論を掲げ、日本は空前の好景気に湧くのです。

佐藤長期政権と沖縄返還 

佐藤栄作はなぜ長期政権が可能になったのか?

自民党内の佐藤のライバルが次々と亡くなったことが挙げられます。加えて「日韓基本条約」や「農地補償法」の制定などを行い、「実務型内閣」としての評価を得て、長期政権は可能になりました。そして二大政党の片割れの社会党がどんどん衰退していったことも佐藤に追い風となりました。沖縄返還に関する密約が着々と進んでいました。「非核三原則」を確定させ、1969年11月に佐藤・ニクソン会談で1972年に「核抜き・本土並み」で返還に合意したのです。

自民党と派閥政治

自民党は派閥連合体としての特徴を持っていました。当時、自民党内閣は派閥の支持なしには成立することはありえませんでした。派閥に「忖度」する人事をしなければいけなかったのです。自民党総裁は大臣に対し2~3の総裁枠しか持っていなかったことはその証左でしょう。

自民党に派閥政治が跋扈した理由には、「選挙制度」が関係しています。中選挙区制は定数が複数あり、自民党内で同士討ちが起こることになります。党は一人の候補だけを応援することはできないため、派閥と個人後援会が選挙において大きな役割を果たしていたのです。

中曽根政権 

三角大福中の中で最後に首相になったのが、中曽根康弘です。自民党総裁選の時、田中角栄率いる「田中派」の支援を受けたため、中曽根が首相に就任すると田中角栄が中曽根内閣で「闇将軍」としての影響力をもったと言われています。「田中曽根内閣」と言われた所以もここにあります。

しかし、ロッキード事件によって田中支配が終焉すると中曽根はトップダウン型の政治を進めていきます。既存の審議会ではなく、首相の私的諮問機関としての性格をもった審議会を活用して、首相主導の政策作りを志向します。

しかし、中曽根の政策もすべてが「トップダウン」だったわけではありません。ボトムアップ型の政策も 数多く作成されました。

さて、中曽根内閣は「戦後政治の総決算」をスローガンに掲げます。中曽根にとっての戦後政治は吉田路線のことです。吉田路線とは、経済成長を重視し、大きな政府を目指すものでしたが、中曽根は新自由主義による小さな政府への転換を図ったのです。三公社の民営化はその象徴です。靖国神社への参拝、防衛費GDP1%枠の撤廃も行いました。

55年体制の崩壊 

89年より自民党の一党支配は崩壊の兆しを見せていました。参議院選挙での敗北によってねじれ国会が常態化したのです。自民党は参議院での多数を確保するために連立政権を組むようになります。単独で参議院の多数を確保できる政党がなかなか出現しなかったのです。

その中で自民党は分裂します。自民党の分裂は竹下派支配の終焉が直接的な原因になっています。ポスト海部に対する小沢面接など竹下派は党内で大きな影響力を保持しますが、結果的に竹下派領袖・金丸信の後継を巡って、竹下派は分裂します。

竹下派分裂後、自民党は1993年の衆議院選挙を迎えます。宮沢内閣への内閣不信任案が羽田派の造反をもって可決されます。総選挙を戦うにあたって、羽田派は自民党を離党し、新生党を結党します。

1993年の衆議院選挙での結果は自民党が第一党になるも、過半数は獲得できませんでした。その結果、7党1会派による細川護熙政権が誕生します。自民党は下野、55年体制は崩壊します。

55年体制は多くの遺産をもたらしました。事前審査制はその代表です。自民党政権は与党の事前審査制を導入し、高確率で法案を成立させていきました。この事前審査制は自民党政調部会、政調審議会、総務会と3段会体制となっており、きわめて組織的なシステムだったのです。55年体制の所産である事前審査制は、現在でも機能しています。