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【語り】2種類の「行列」と人類

【語り】2種類の「行列」と人類

行列が嫌いです。

こんにちは。FREDです。僕は行列が嫌いです。

長々と待っているとイライラするし、なぜ進まないのかと思って、前の方を何回も背伸びしながら見てしまいます。その格好は、はたから見ればさぞかし滑稽なものなのでしょう。嗚呼。

「好き好んで行列に並んでいるんだから、文句言うなや」というツッコミはもっともなことで、反論の余地がありません。行列を避ける方法なんていくらでもあるのですから。

さて、人がなぜ行列に並んでしまうのかについては、多数の先行研究がなされています。

  1. 並ぶ価値があるとわかっているとき
  2. 流行を試して見たいとき
  3. その時並ばないと手に入らないとき
  4. どうしても欲しい、見たいとき

このような理由があるといっても、行列が嫌いな人は84%にも上るとのこと。

ホモ・サピエンスとは誠に不思議な生き物です。

参考サイト▶︎▶︎▶︎「行列は嫌い」が84%。でも、なぜ行列に並んでしまうんだろう?

「俺は行列が嫌いだ!絶対行列には並ばない!!」

という方もいるでしょう。たいそう立派な人だと思いますが、しかし、そんな人でもどうせ気づかずに「行列」には並んでいると僕は思ってしまいます。

なぜか?

今や「行列」はいつのまにか巻き込まれてしまうものだからです。

行列は何もリアルの世界だけのものではなくなりました。インターネットの世界にも行列は進出してきているのです。

わかりやすいのは「食べログ」などの口コミサイト。

口コミサイトにはみんなの評価が溜まっています。

それをみて、口コミサイトのユーザーは評価の高いお店を参考にし、行こうかなと考えます。

口コミサイト上での「評価が高いお店」にユーザーは群がることになります。見事、オンライン上に「行列」の完成です。

「YouTube」で言えば、「再生回数」や「高評価」が高い動画を後追い的にみんな見ようとすることになりましょうか。

気づけば、「話題の動画」ばかり見て、「話題のお店」ばかりに足を運ぶようになる。

オフライン上でも「行列」に並び、気づけば、オンライン上でも「行列」に並んでしまう。

ここで、別に僕は「ネットの情報を鵜呑みにするな!」とか「みんなと同じお店に行くな」ということを主張したいわけではありません。そんな主張はそこらへんに溢れてるので、もうつまらないでしょう。

僕がここで申したいのは「行列」には種類があるよねということなのです。

行列には2種類あります

僕が思う2種類の行列とは

  1. 並ぶのに注意がいる行列
  2. 安心して並べる行列

です。順番に説明しましょう。

1 並ぶのに注意がいる行列

並ぶのに注意がいる行列とは「ネットの高評価」や「再生回数の多さ」によってできる現代の「行列」のことです。

2 安心して並べる行列

安心して並べる行列とは、ズバリ「古典」です。ここでいう古典とはプラトンの「国家」などの人類の歴史の中で、代々受け継がれてきた「傑作」を意味します。「古典」は歴史の中で多くの人に読まれてきました。これを比喩的に古典の前に「行列」を作ってきたということができるでしょう。

1と2の違い

この2種類の「行列」にはどんな違いがあるのでしょうか。

これらの違いは「時間にいじめられたか否か」です。

「時が解決する」という言葉がありますが、その通りで、「時間」というものはとんでもなく強い力を持っています。どんなにすごい経験をしても、時が経てば、当時のドキドキ・ワクワクは影を潜め、存在感は薄くなっていきます。

逆にいえば、その「時」というものに抗っているものはかなり強いということになります。

この「時」に抗っているものがすなわち「古典」です。

一方で、ネットの情報は「時」に対抗していません。インターネットの歴史は、人類の歴史に比べたら、極めて短いと言えるからです。

今、大人気で評価の高い「YouTube」の動画があったとして、1000年後もそれが視聴し続けられているかどうか。そこが「動画」の質を決めるのでしょう。かと言って、現時点ではそんなことわからないのだけど。

かと言って

古典礼賛主義と反ネット主義というわかりやすい「老害」みたいな主張をしたいわけではありません。僕もネット上で行列に並んでいるうちの一人だからです。リアルでは行列にはほとんど並ばないけど。

もちろん、食べログの評価によって行列ができることとプラトンの「国家」に多くの人類が行列をなしてきたことを一緒くたに考える人は皆無でしょう。

ある意味、このことはわかりきったことなのです。

ですが、世の中を取り巻いている「情報」はどんな種類があって、どんな文脈でその情報が存在するのかを把握しておくことは大切なことだと僕は思うのです。

「古典」の弱み

時のパワーに抗ってきた過去の作品や情報、いわゆる「古典」は人類の歴史の中でも本当に素晴らしいものばかりだと思います。

「古典」は普遍的で、強いメッセージを持っていることは異論を待ちません。

しかし、厄介なのが、そのような類の作品は「時」に抗い、「時」に勝利し続けて来たゆえに、あるものを獲得してしまいます。

それが「権威」です。

「権威」は人を寄せ付けないパワーを持っています。かつては「ベストセラー」だったのに時が経つにつれ、「権威」を持って、「古典」になる。その中の情報をよく見てみれば、普遍的で重要なものばかりが入っているのに、人々から遠ざけられてしまう。

特に現代では「古典」よりもわかりやすくて簡単に手に入る情報が溢れています。そのために、より「古典」は社会の角に追いやられてしまいます。

これは「古典」が持つ運命なのでしょうか。

わかりやすい情報だけが流通する世界は、少し危険な気がします。

まとめ

現代風の「行列」がリアルの世界、非リアルの世界どちらにも跋扈する世界です。

しかし、人類の歴史的な「行列」にも目を向けて見てもいいのではないでしょうか。

「認知革命」を経て人類が獲得した知恵。それを「食べログ」が淘汰するのはちょっと寂しい。

「古典」から「権威」を取り除けば、こんなことにはならないのか?

いや、「権威」を取り除けば「古典」ではなくなる気もする。難しい。

なにを言いたいかって?

「時」という風雪に耐えた人類の財産=「古典」に対して、一部の研究者だけでなく、みんなが「行列」を作る世界も素敵だなと思うのです。