世界平和を目指して!ロカルノ体制について解説!

世界平和を目指して!ロカルノ体制について解説!

この記事ではロカルノ体制について詳しく解説しています。ヴェルサイユ体制によってつかの間の平和を楽しむヨーロッパ諸国でしたが、その平和は砂上の楼閣。非常に脆いものでした。その脆さの象徴がロカルノ条約。

ロカルノ条約による平和がいかに脆いものだったのかを確認すれば第二次世界対戦がどのように発生したのかについてもわかるでしょう。

国際連盟と国際安全保障

第一次世界大戦後の世界秩序ではドイツをどのように位置付けるのかが大きな問題でした。しかし、ヴェルサイユ条約ではその問題は解決されません。

第一次世界大戦を起こしながらもいまだ大きな国力を持つドイツをいかに無力化するかが他の西洋諸国に課せられた大きなイシューでした。

結局、ヴェルサイユ条約ではドイツに対して莫大な賠償金が課せられ、ラインラントを非武装地帯とされました。しかしドイツは賠償金を払うことを拒絶し、オランダやベルギーなどの要求をつっぱねます。その結果、フランスとベルギーがラインラントに進駐。戦争の危険性が高まります。

やはりドイツを含めた地域秩序の模索が重要案件。そこで考えられたのが国際連盟と国際安全保障でした。

国際連盟の成立へ

ウィルソン米大統領は、第一次世界大戦勃発の原因が勢力均衡にあると考え、それを批判し、新しい国際安全保障の理念を求めました。それが「集団安全保障」の理念です。

それまで国家単位での安全保障が行われていましたが、一国での国家安全保障にこだわると他国に対しては脅威に映ります。その結果、お互いの軍拡競争が止まらなくなります。これが安全保障のジレンマと呼ばれる現象です。

安全を確保しようとするばかりにすべての国で軍事力の拡大が起き、危険が高まってしまうのは健全とは言えません。この状況を変えるためにウィルソンが考え出したのが集団安全保障でした。

この「集団安全保障」の実現をウィルソン大統領は戦後平和を確立する上での最重要目標とし、国際連盟設立に尽力します。

集団安全保障とは侵略などによる平和の破壊を加盟国全体における普遍主義的な脅威と認識し、国際社会全体でそれを処罰して対処するという思想のこと。

侵略国が現れた場合に加盟国全体に対する攻撃とみなして、構成員が全体で対応するとの考え方でした。攻撃すれば多くの国家が攻撃してくると思えば抑止力にもなる考え方です。

しかし、この集団安全保障には重大な欠陥がありました。それは国家が利己的だということです。国家は他国が攻撃された時、その他国を確実に救出しなければこの集団安全保障は成立しません。しかし、本当にすべての国が救出に向かうのか?大きな疑問が投げかけられました。

最も強くその疑問を主張したのが皮肉にもアメリカでした。孤立主義を語る国内の政治家からはなぜ自分たちが攻撃されていないのにもかかわらず、他国を助けに行かねばならないのかとの主張が相次ぎます。ウィルソンはそのことに対して十分な説明をすることができませんでした。

結局、ウィルソンは国際連盟規約に経済的制裁を盛り込むことしか出来ず、その効果には限界が見られました。

国際連盟規約は1919年4月に調印され、1920年1月10日にヴェルサイユ条約発行とともに国際連盟も成立します。

しかし、当のアメリカは孤立主義の台頭によってアメリカ議会上院で批准が拒否され、アメリカが国際連盟に加盟できませんでした。

国際連盟にはジュネーブの本部に総会、理事会、常設事務局があり、さらに自主機関として常設司法裁判所(PCJ)と国際労働機関(ILO)、および多数の諮問委員会がありました。

理事会は常任理事国と非常任理事国によって構成され、イギリス、フランス、日本、イタリアの四カ国が常任理事国。

アメリカも当初は常任理事国に含まれていたものの、連盟規約の批准拒否によって国際連盟に加わらなかったことから除外されます。のちには1926年にドイツ、34年にソ連がそれぞれ常任理事国となりました。裏を返せば、国際連盟には発足当時、アメリカ、ソ連、ドイツという国際政治上のキープレイヤー3名が所属しておらず、機関として非常に脆弱なものでした。

国際連盟外交の時代

1920年から1924年までの間、ヨーロッパの諸課題は国際連盟を通じてではなくて、国家間の個別的外交交渉により解決が模索されました。新たに発足した国際連盟が問題解決にあまり役立つことがなかったのです。

これは一つには地域的な問題を地域関係諸国のみで解決する方が容易であった点が考えられます。中でも1924年のロカルノ条約は地域的安全保障の発想で、国際連盟による集団安全保障を補完する意義を持つ重要な条約となりました。

1924年からはドイツ問題を含めてヨーロッパの多くの問題がすでに解決されたこともあり、イギリスやフランスやドイツなど国際連盟外交を展開するようになりました。

この時代には国際協調主義時代として各国ともに平和的な外交手段で諸々の争点を議論するようになります。

しかし、1930年代に入ると、日本の満州事変やナチスのドイツなど国際連盟外交を正面から否定する勢力が台頭し、それと同時に国際連盟外交の時代が終了します。

1920年代は国際協調がどれほど難しい問題なのかを実験する時代でもあったのです。

1920年代の国際協調体制

ジェノア会議

1922年4月、ロイド=ジョージ首相の提案によってイタリアのジェノアでドイツ賠償問題とロシア復興問題を討議するための国際会議が開催されました。これがジェノア会議です。

ジェノア会議はロシアのボルシェビキ政権が招待された最初の公式の国際会議でした。

会議においてフランスはボリシェヴィキ新政権に対して旧政府の債務を支払うことを強要し、ロシア復興問題をめぐる外交交渉は失敗に終わりました。

賠償問題解決の模索

ドイツは大戦後、1320億マルクにのぼる膨大な賠償を課せられ、支払い不可能に陥っていました。そのためドイツ政府は賠償金の支払いを拒否します。

それに対抗してフランスは1923年にベルギーとともにルールを軍事占領し、それによってドイツ経済が大混乱となりました。

アメリカの銀行家・チャールズ=ドーズは新しい賠償問題解決提案を行います。アメリカの資本導入とドイツ賠償条件の緩和により問題解決を目指したのです。

1924年のロンドン賠償会議でこのドーズ・プランが採択され、ドーズはこれによりノーベル平和賞を受賞しました。これによりドイツとフランスとの関係が和解へと向かうことになりました。

ロカルノ体制の成立

独仏和解への過程

ロカルノ条約:1925年10月、スイス南部のマジョッレ湖畔の保養地のロカルノに英、仏、独、伊、ベルギー、ポーランド、チェコスロバキアの七カ国が集まりました。

目的はパリ講和会議後のヨーロッパの安全保障問題について討議を行うこと。戦後初めてドイツとフランスが集まり、直接、国境線問題などの安全保障問題の解決を目指す重要な会議となりました。

1925年10月16日にイタリアのロカルノで仮調印し、12月1日にドイツ、フランス、ベルギー、イギリス、イタリアによりロンドンの外務省舎の中で正式に調印されました。主な合意内容は以下の通りです。

  1. フランス=ドイツ間、ベルギー=ドイツ間の国境の保障条約(西側国境線の画定)
  2. ドイツとフランス、ベルギー、チェコスロバキア、ポーランドとの間の仲裁条約。
  3. フランスとチェコスロバキアおよびポーランドとの間の相互保障条約(対独安全保障協力)

ロカルノ条約によりラインラントからのフランス軍の撤退も約束され、1930年に実行されました。この条約によってそれまで不安定で相互不信であふれていたヨーロッパ国際体制が一定の信頼と強調による国際体制へと発展することになります。

ロカルノ条約はヴェルサイユ条約のように戦勝国が敗戦国に押し付けた条約ではなくて、ドイツも当事者として交渉に参加した上で自発的に合意した条約でした。敗者が秩序づくりに関わることで特定の国に不満を溜めることにはならなかった点で画期的です。

さらにはイギリスがフランスの安全保障とラインラントの非武装化に関する保障に合意するなどフランスが最も求めていたイギリスのヨーロッパ安全保障への関与を確保することもでき、地域内の安定が確保できました。

ここではこの平和体制構築に大きく寄与した3人の外務大臣をご紹介しましょう。

アリスディード・ブリアン(1862年〜1932年)

925年以後一貫して外相の地位に就き、1920年代の国際強調外交を展開した。1925年にはロカルノ条約成立に貢献し、1926年にはドイツ国際連盟加入実現、1928年にはケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)の調印、そして1930年には「ヨーロッパ連邦」構想を表明する。1926年にシュトレーゼマンとともにノーベル平和賞を受賞した。

グスタフ・シュトレーゼマン(1878年〜1929年)

1923年に首相兼外相に就任すると、従来の「消極的抵抗」姿勢を放棄して、積極的な協調外交に転化した。1924年にはドーズ案の実現、25年のロカルノ条約、26年のドイツの連盟加入とブリアンとともに国際協調主義の時代を構築した。一方でソ連との関係強化によりドイツの国際的な地位向上を目指した。

オースティン=チェンバレン(1863年〜1937年)

1924年から1929年までイギリスの外相を務める。1925年にはロカルノ条約の調印を導き、独仏和解のための仲介と、イギリスのヨーロッパ関与を確立した。1925年10月16日、自らの誕生日にスイス湖畔のロカルノで条約を調印し、「戦争の歳月と平和の歳月を分かつ真の分岐線」とこれを呼んだ。

これら3人の優れた外務大臣の功績によりヨーロッパ社会は安定と強調の時代を迎えることになります。

1928年 パリ不戦条約の調印

平和体制構築のための試みはさらに続きます。

仏外相ブリアンはフランスの安全保障を確立するために1928年に米仏二国間で「恒久友好協定」を締結するように提案します。しかし、アメリカでの孤立主義の意向は強く、アメリカ政府はこれを受け入れることができません。米国務省は逆提案として戦争放棄を謳う多国間条約案を打ち出しました。

漠然とした条約内容であり、これはブリアンが望んでいた米仏条約とは異なりましたがブリアンはこれを受け入れます。これが不戦条約です。不戦条約により戦争が有史以来、初めて違法なものとなりました。

この条約創案に尽力した米仏2人の外相の名を取って、ケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれます。

日本政府は条文の「人民の名において」という言葉に批判が生じて、留保を加えることになります。

ちなみにこの不戦条約を初めて破ったのが日本でした。1932年の満州事変は明確な侵略行為であり、平和に対する挑戦でした。

ブリアンは熱烈な欧州統合支持者でした。1929年には国際連盟総会で「欧州連合」についての提案を行い、翌30年には「ブリアン・メモランダム」と呼ばれる欧州統合構想を発表します。独仏の協力により欧州に平和をもたらそうとしたのです。

しかし、ナショナリズムの根強いこの時代にはブリアン外相の掲げた欧州統合構想は幅広い支持を得ることはありませんでした。欧州統合が実現するにはさらに20年の歳月を経なければなりませんでした。

この記事は以下の本を参考に作成しています。