「道徳」という科目は失笑ものであると思う
- 2018.06.14
- コラム

道徳という科目への疑問
中学校までは道徳の時間がある。最近では、道徳が正式な科目になったらしい。「きれいごとの押し付け」としか思わない僕にの取ってはあり得ない話である。
ギリシャの哲学でも教えた方がよっぽど有意義だと思う。
それはそれとして、僕が道徳ヘイトになったのには、道徳がもつ性質のせいだけではない。
中学校のとき
相変わらず道徳をかったるそうに受けていたわけだが、その日は先生の板書にミスが目立った。だから、指摘して差し上げた。
何回も指摘していると、先生は怒った。
「あなたの性格は歪んでいる」
道徳の授業で聞こえるセリフとは思えない。ましてやその発言主体が「道徳」なるものを教えている先生である。
「道徳」を教えている授業で、ごく真っ当な指摘をしている人間に、「あなたの性格は歪んでいる」と発言することは明らかに「徳」を欠いている。
先生の立場からすれば、ミスを指摘された恥ずかしさ、苛立ちがあって当たり前だ。それに指摘してくるのは小生意気な中学生である。小言の一つでも言いたくなるのはわかるが、「道徳」の授業で「性格」について、言及するのはなんとも皮肉なものである。
私の性格は歪んでいると思う。
それは僕が歪ませているのではなく、先生自らが歪ませているからと僕は思うからだ。
歪んだ目線でモノを見れば、歪んで見える。先生の発言はある意味ごもっともである。事実を言っているのに過ぎないのだから。
しかし、その先生は「徳」についてご存知なのだろうか?「徳」を持っている教師なら、僕にこんな発言はしないはずである。よって、その先生は「徳」を持っていない。しかし、「道徳」を教えようとしている。ここは大きな矛盾がある。
「徳の道」を教えるのが「道徳」の授業である。それは「徳」は教えることができるという前提に立っている。
ということは「徳」が教えることができるとするならば、「徳」とはなんであるかというものをはっきりとさせなければいけない。しかし、僕の先生は「徳」を理解していなかった。
知らないものを教えていたのである。これはハッタリだ。騙されていると言ってもいい。
そんな先生に僕は「道徳」を教えられて、本当に不幸だと思う。これは悲劇だ。
では、「徳」とはなんなのだろうか? 少し考えてみたい。
例をあげるだけでは不十分
道徳の授業で扱うのは「友達を思いやる」「お年寄りに優しくする」と言ったもの。
これらはたしかに「徳」である。しかし、「徳」の本質ではない。
りんごの本質って何?って聞かれたとき、「青森産のりんご」とか「長野のりんご」などと答えるのと同じである。これは性質ではなく、事例を答えているのと同じだ。
「徳」の本質を教えているのではなく、「徳」の一例を次々と生徒に垂れ流しているのが、道徳の授業の実態であると言える。
「徳」なるものがわかっていない人間が「徳」を講義するのだから、上のような事態が起きる。教員試験をパスしたから「徳」が手に入るなら僕も今すぐ教職課程を履修したいものである。
「徳」の本質
「徳」の本質はもちろんわからない。ロゴスに従うこととアリストテレスは定義したと記憶しているが、それほど古代より考えられているものである。つまり、定義するのが難しい。だから、具体例を垂れ流すのはある意味仕方ないのかもしれない。
しかし、その具体例をあたかもこれが「徳」そのものであるという考えのもと、押し付けるのはかなり危険だと思う。具体例はあくまで、具体例。物事の一側面でしかない。だから、「徳」の全体を理解するには具体例だけでは不十分だ。
それでも、小・中学生というレベル感では「具体例」中心のものになることはこれもまた仕方ないことなのであろう。それを甘んじて受け入れるならば、「道徳」を教える人の質くらい担保してほしいものだと思うのは私だけであろうか。
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