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私と中国

私と中国

 私にとって中国は初めての外国だった。私の出身地は埼玉県の蕨市。実家から歩くとすぐに市は変わり、川口市の芝園団地に着く。今では芝園団地には約5000人ほどが住んでいる。その半分が外国人世帯と言われ、その外国人の内訳のほとんどが中国人だ。しかし、私が芝園団地で遊び始めた小学生低学年の頃、今のように中国人の存在感は大きくなかった。中国は徐々に僕の前に現れたのだった。

 小学生のころ芝園団地には祖父とよく遊びに行った。団地内には随所に整然と公園が整備されていたからだ。芝園団地は賃料も比較的安かったことから、川口市の鋳物工場で働く労働者が集住し始めたという。中国人の集住が進むに連れて、芝園団地は大きく変貌した。チャイナタウン化が進んでいったのだ。団地には商店が集まるエリアがある。そのエリアに中国名の保育園が建設されたり、スーパーの商品表記には中国語が溢れたりした。こうして期せずして、私の近くに初めての異国が現れた。小学生の私は変わりゆく芝園団地の姿を見て、正直、気味が悪いと思うようになった。当時の私にとって、リアルに感じる中国は異質で不気味なものに映った。実家の目の前のアパートにも中国人が住むようになった。彼らは夜に大きな声で喋る。迷惑だと思ったことも少なくはない。

 私は葛藤した。自分の目の前に現れたリアルな中国への拒否感は中国人への差別心なのではないかという疑問が頭をもたげたのである。私自身、差別をしているつもりは毛頭なかった。その一方で拒否感は確かに存在していた。自分自身の中でこの葛藤に答えが出なかった。小学生の私にとって答えを出すにはあまりに苦しい葛藤だった。 

 後々、市民広報で見た中国人の声には、中国人は日本人が活動する昼間はなかなか活動しづらく、自分たちは夜に活動するしかないとあった。それを読み、短絡的な感情論で中国人に負の感情を抱いてしまったことを恥じた。日本におけるマイノリティーの苦しみは理解しているつもりだった。しかし、振り替えってみると日本に日本人として暮らしているとやはり同質社会に慣れてしまう。その結果、自分とは異なるものを色眼鏡で見てしまっていた。やはり中国は私にとって初めての異国だった。

 その一方、中国を違和感なく受け入れている自分もいた。当たり前のように漢字を使い、中華料理を食べる。このギャップは僕にとって不思議だった。自分の中で恐怖を感じる「中国」と自然に受容する「中国」の二つがあるようだった。多文化共生が声高に叫ばれる時代である。中国との原体験で生まれた葛藤を大切にしながら、社会のあり方を考えたいとも思っている。

 話は変わるが、私は政治に関心を持つようになった。その興味のままに、政治学科に入学した。入学後、政治の中でもとりわけ独裁体制に関心が向いた。独裁制が持つ露骨な人間の権力欲や支配欲は、私自身の怖いもの見たさを掻き立てたのである。

 自分自身、大学生になってから独裁への興味が湧いたと思い込んでいた。しかし、実家の本棚を漁っていると、『世界の「独裁国家」がわかる本』(PHP文庫、2010年)が出てきた。どうやら大学に入るずっと前から、潜在的に独裁というものに興味はあったようである。私自身はこの本のことはすっかり忘れていたが、母は覚えており、変な本を読んでいるなと息子の私を少し心配していたようである。

 大学入学後、その眠っていた独裁への関心のスイッチを入れたのは北朝鮮だった。日本から比較的近いところに日本とは全く違う原理で動く国があることに衝撃を受けた。北朝鮮への目線を深めていく中でその周辺の国家にも関心が向くようになった。そこでの中国である。中国も独裁体制であることを知ったがその政治システムは北朝鮮のシステムとはまた異なる。同じ独裁の中にも多様性や比較可能性があることは独裁体制をより深く知りたいという思いに拍車を駆けた。

 今回のエッセイを書くにあたって、久しぶりに芝園団地を訪れてみた。やはりかつての感じ方とは異なった感覚を得た。その感覚とは小学生のころの拒否感ではなかった。むしろ普通に受け入れられる感覚であった。これは私が大人になったがゆえの感覚のように思えた。しかし、大人になったことは喜ばしいことではないことのように感じる。異国への鋭い感覚を失ってしまったように思えてならないからだ。

 芝園団地のチャイナタウンを眺めながら、かつてのように新鮮な異国としての中国を捉えたいと思った。政治に、とりわけ独裁体制に関心を持っていることは追い風だ。かつて中国との間で感じた葛藤と興味のある独裁体制に対して、もう一度ゼミナールで向き合うことができるのなら、学問的知見を深めるのはもちろん、自分自身の文脈に即したより豊かな人生を歩めるのではないかと思っている。