盧武鉉時代の韓国政治についてわかりやすく解説

盧武鉉時代の韓国政治についてわかりやすく解説

この記事では韓国第16代大統領・盧武鉉の時代の韓国政治について詳しく解説しています。盧武鉉といえば現在の韓国大統領・文在寅の盟友として有名で、実際に文在寅も盧武鉉の政策を引き継いでいる部分があります。盧武鉉時代を知ることでより現在の韓国政治が見えてくると思います。よろしくお願いいたします。

第16代韓国大統領選挙

選挙の構図と結果

金大中大統領の任期満了に伴う第16代韓国大統領選挙が2002年12月19日に開催されました。

金大中政権の方針を受け継ぐ与党・新千年民主党の盧武鉉候補に保守派の重鎮・李会昌候補が対立する構図となりました。

候補者氏名と得票率は以下のようです。

  • 盧武鉉 新千年民主党  48.9%
  • 李会昌 ハンナラ党   46.6%
  • 権栄吉 民主労働党   3.9%

盧武鉉ドラマ

非常に僅差で盧武鉉候補が勝利しました。この盧武鉉候補の勝利は「盧武鉉ドラマ」と呼ばれる劇的な選挙戦がありました。

まず劇的なのが鄭夢準との候補者一本化です。少数与党の上に、党内非主流派でった盧武鉉にとって鄭夢準との一本化で自分が出馬を諦めることが求められる立場でした。しかし鄭夢準の失言もあり、一本化された候補として出馬が可能になります。

党内の予備選挙に勝利した盧武鉉を待ち受けてたのが強力な韓国保守政治家・李会昌でした。選挙当日も午前中はリードされていたのにも関わらず、午後からの若年層の動員によって薄氷の勝利を納めます。

新しい潮流

盧武鉉大統領誕生にはインターネット上での動きが大きな影響力を持ちました。「ノサモ」と呼ばれるインターネットに起源を持つファンクラブやSNSでの発信が中心となって、盧武鉉の支持基盤が形成されたからです。盧武鉉大統領の誕生は韓国政治の新時代の誕生を予見させるものでした。

しかし、盧武鉉政権の誕生はこれまでない対立をもたらしました。それが「世代葛藤」や「南南葛藤」です。反民主派か民主化派の対立が糸段落すると世代間での政治観の違いや保守対進歩のイデオロギー的な対立が激しくなりました。

盧武鉉政権の政策

ポスト三金政治の始まり

盧武鉉政権誕生は韓国政治が大きく変わる契機になったと受け止めらられています。名実ともに民主化後の政治が始まったからです。

なぜならば60年代から70年代にかけて活躍した政治家が表舞台から退場して、民主化運動に貢献した「三八六」世代の台頭が顕著になったからです。これを「ポスト三金」の政治と言います。

三金とは金泳三、金大中、金鐘泌という韓国の大物政治家の総称ですが、彼らは大きな既得権益を持っています。彼らに対抗する形で立ち現れたのが盧武鉉だったのです。

参与政府の誕生

盧武鉉は自らの政府を「参与政府」であるとして、国民自らが参加できる政府を実現することを目指しました。破格人事と呼ばれる「三八六世代」と「運動圏」出身者の登用を積極的に進めます。

過去に民主化運動を行なった人たちの多くが青瓦台へと入って行きました。中には投獄された人間も多く、驚きの人事が多かったです。

「討論共和国」とのキャッチフレーズをとり、盧武鉉自らが国民と直接討論する場を設けるなど開かれた政府を目指しました。

地域主義の打開

盧武鉉は地域主義の打開に注力します。地域主義は先述の三金政治の象徴であり、韓国政治の病理であったからです。

これと同時に進めたのが、地方分権です。あまりにソウルに集中しすぎている状況を改善するために盧武鉉は中央政府の機能を一部移転などを実行します。

この地方分権は保守と進歩に関わらない共通のアジェンダで、盧武鉉政権以後の政権でも引き続き進められました。

盧武鉉政権の外交

第二回南北首脳会談

盧武鉉政権は北朝鮮との関係をはじめ、外交の場で主導的な役割を果たそうとします。

大きな外交上の進展は2007年10月の第二回南北首脳会談です。盧武鉉政権の末期に行われたこの会談ではいくつかの合意が形成されましたが、結果的に結ばれた合意はほとんど履行されることはありませんでした。

盧武鉉政権5年間で、南北関係は金大中政権の継承・発展を目指すことが謳われました。

水平な米韓同盟へ

盧武鉉はアメリカとの関係を水平的にするように努めました。韓国の安全保障は韓国軍と在韓米軍によって担われています。韓国軍の平時の指揮官はもちろん韓国軍大将ですが、戦時における作戦統制権はアメリカ大将でした。

これは戦時には韓国軍がアメリカ軍の指揮下に入ることを意味します。この戦時統制権を韓国軍に返還させることを交渉したのです。

この米韓地位協定の見直しは結果的に地位協定そのものを変更するまでには至りませんでしたが、運用を見直すことで決着しました。

日韓関係はどうなったか

金大中政権を引き継いだ盧武鉉政権は就任直後は日本との関係を良好なものに保ちますが、2005年以降は自らの支持率が悪化するにつれて日本に強硬な路線を取るようになります。

竹島問題や歴史問題を巡り対立を深め、盧武鉉大統領が提唱した韓国による「北東アジア均衡者論」にも悪影響を及ぼすことになりました。

参与政府の失敗

以上のように新しい政治を目指した盧武鉉大統領でしたが、結果的には与野党内外に摩擦や軋轢を生み、政治的には混乱していくことになります。

就任して1年余りの2003年9月には盧武鉉大統領らが与党から離党し、2004年3月には大統領弾劾訴追が行われました。

憲法裁判所によって2004年5月にこの弾劾案は否決されましたが、この弾劾案が侵犯されている最中の第17代総選挙では惨敗し、厳しい政権運営を迫られました。