アヘン戦争についてめちゃくちゃ詳しく解説!

アヘン戦争についてめちゃくちゃ詳しく解説!

この記事ではアヘン戦争について詳しく解説しています。アヘン戦争とは清とイギリスの間で1840年から2年間戦われた戦争です。この戦争で清朝はイギリスにコテンパンに負けてしまいます。戦争に至るまでの経緯や清朝にもたらした影響など多面的にアヘン戦争を考察します。

アヘン貿易

中華思想と朝貢システム/冊封体制

中国人は歴史的に他の民族よりも自分たちが知的にも道徳的にも優越している民族だと考えてきました。これがいわゆる中華思想です。中国人は自らが世界の中心であり周辺の民族のことを夷狄(いてき)と呼びました。

そんな中国は周囲の国々と独特な関係でつながっていました。その関係が朝貢です。周囲の国々は貢物を中華帝国に恭しく献上し、皇帝はその貢物に対して豪華なお返しをします。中国と周辺国は独特な貿易関係でつながっていました。

この朝貢とセットのシステムが冊封体制です。中国皇帝が周辺国の君主に対し、「王侯」の称号を与えて中国皇帝との間に君臣関係を作り出すシステムです。

「冊封」の「冊」は任命書を意味します。冊封体制を作ったならば皇帝に対して礼儀を持って接しなければなりません。その礼儀の示し方が先述した朝貢というわけです。周辺国の支配者もまた中国皇帝と結びつくことによって権威を高めることができたため、中国と周辺国にとってウィンウィンでした。

貿易は中国皇帝が周囲の野蛮人に対して与える恩恵にすぎませんでした。中国皇帝には貿易を拡大する発想も関心もありませんでした。

イギリスの中国進出

アヘンの密貿易

清朝は広東州の杭州に限り、西洋との貿易を認めていました。杭州では公行と呼ばれる商人だけが交易を認めており、自由な貿易は認められませんでした。

そこでイギリス東インド会社は中国産のお茶を輸入し始めます。するとイギリスは中国からの輸入品の中でお茶が最もシェアを占めるようになりました。当時、ヨーロッパでは喫茶の習慣が定着していたためです。しかし、中国貿易にイギリスが熱を挙げるようになった最も根本的な理由はアメリカ独立で最大の植民地を失っていたからでした。

ところが中国との貿易は拡大すればするほどイギリス人を不安にさせました。なぜか。茶の輸入が増えれば増えるほどイギリス本国からの銀が流出する上に、イギリス側が輸出しようとした毛織物や綿類が売れなかったためです。

結局、イギリスは中国貿易で多くの赤字を叩き出します。赤字補填のために、イギリスは中国向けのアヘン密貿易に乗り出します。インド産アヘンが中国に密輸されるようになりました。アヘンを吸う習慣が中国の中で急速に広まっていったため、密輸量は急速に増加していきます。こうしてイギリス、インド、中国の三角貿易が形成されました。

使節団の派遣

中国との交易需要が増加するに合わせ、イギリスは中国の貿易制限を取り払おうと次々と中国に交渉団を送り込みます。1787年にはカスカート、1793年にはマーカートニー、1816年にはアマーストが通商使節として派遣されました。

しかし、いずれも中国皇帝を動かすことはできませんでした。特にアマーストは皇帝の前での三跪九叩頭礼を拒否して即刻国外退去になるといったありさま。

上でも述べたように当時の中国は貿易を朝貢国に対する恩恵としか思っていませんでした。富を拡大する貿易富の重要性を理解できるわけがありませんでした。

乾隆帝は自由貿易を要求するマーカートニーに対して、以下のように述べています。

我が国は物資が大量にあるからそもそも他国に頼る必要はない。茶、銀、毛織物がお前の国に恩恵になるから与えているのである。ところがお前の国はその恩恵以外のものを求めている。我々は未開の諸国を啓蒙たらしめるために、恩恵を与えているのであり、万国を平等に扱っている。どうしてイギリスだけを特別扱いすることができようか

しかし、イギリスでは1834年東インド会社の貿易独占権が失われたため、中国市場における貿易解放への要求が高まりつつありました。意地でも中国市場を解放させたいイギリスの姿勢により戦争への足音がはっきりと聞こえてくることになりました。

清朝の対応

アヘン貿易をめぐる論争ー「弛禁派」vs「厳禁派」

アヘンは多くの廃人を作り出し、中国の社会風紀を見出しました。清朝としても、アヘン輸入を禁止しようとします。しかし、結果は尽く失敗。取締りを行う官僚自身も腐敗しており、自らがアヘンに手を染める場合もあるほどでした。

結局は密輸入が激しくなることで中国の銀が国外に流出する事態にまで発展します。中国国内の銀価格は高騰します。これは実質的な大増税を意味します。銀は銅銭に換算し、税金として納めなければならなかったからです。

清朝の中でもアヘンへの姿勢は別れます。弛禁派はアヘンに対して貿易量を多くして課税する必要を唱え、厳禁派はアヘンの密売者や吸引者を厳しく罰するべきだとします。最高権力者・皇帝の判断とはいかに。

道光帝による林則徐の広州派遣

時の皇帝、道光帝は厳禁派に肩入れし、林則徐を特命全権大臣に任命して、厳しく取締りを行わせました。北京からわざわざ林則徐を派遣したのは広州の役人が役に立たないことをわかっていたからです。

アヘン吸引者や密貿易関係者を摘発しつつ、イギリスから派遣されていた貿易担当官・チャールズ=エリオットを監禁。アヘンを焼却処分します。エリオットは当然のようにイギリス本国に救援を依頼します。清はイギリスに戦争の口実を与えてしまいました。

アヘン戦争の始まりと経緯

イギリスは中国市場解放のために武力行使の機会を伺っていました。エリオット監禁の報を受けたイギリス政府はここがチャンスと開戦を検討し始めます。アヘン戦争の仕掛け人はエリオットだったのかもしれません。

しかし、イギリスにおいて、内閣が軍隊を派遣するための特別予算を議会に提案した時、議会から相当強い反発がありました。

後の首相であるグラッドストンも清との戦争について

相当な不正義であり、永遠の不名誉を我々にもたらすであろう

と述べたほどです。しかし、結果的に特別予算は議会を通過。開戦が間近に迫ります。西洋の軍事力を理解していた林則徐はイギリス来襲への準備を始めます。ポルトガルから大砲を導入し、広州の守りを固めます。しかし、外国の事情を何も知らない他の官僚は事態についていけません。

ついにイギリス艦隊が杭州沖にその姿を表します。軍艦16隻、兵員4000名。イギリス軍は守りを固める広州を避け、一気に北上。廈門を攻撃した後に天津に迫ります。

イギリスの進撃を見た北京の官僚たちはアヘン弛緩論へと傾いていきます。林則徐は解任され、琦善(きぜん)がイギリスとの交渉役として任命されました。琦善はイギリスの圧力に負けて賠償金と香港島の割譲を約束します。

この内容に道皇帝は激怒。琦善を解任し、戦争を続行します。イギリスは砲撃を続け、破壊の限りを尽くします。上海を占領。南京に迫ります。この後に及んで清朝はイギリスとの講和を求めます。その結果、南京条約が結ばれました。

南京条約の締結

南京条約はイギリス側の要求を全部飲むものでした。

  • 香港の割譲
  • 5つの港の開港(広州、復州寧波、廈門、上海)
  • 領事館の設置
  • 賠償金2100万ドルの支払い
  • 公行の禁止
  • 治外法権の承認(中国に住む外国人に対する裁判権の喪失)

が南京条約の主要な項目です。しかし、戦後処理は南京条約の13カ条だけでは終わりませんでした。というのもこれらの条文はアヘンについての取り決めがなかったからです。

南京条約締結以降もイギリスはアヘン自由化を求め続けます。結局、アヘン戦争後もアヘン密貿易は盛んなままでした。

南京条約によってイギリスの中国進出は加速します。これに遅れまいとしてアメリカとフランスが中国に使節団を派遣。アメリカとは望厦条約、フランスとは黄埔条約が結ばれました。いずれも南京条約に準じた内容です。他にも中国人に対する信教の自由や自国人に対する条約免除も定められました。

西洋列強の中国進出が始まる中で貪欲なイギリスはまだまだ権益を求めていきます。南京条約を締結した後、アヘン貿易はますます盛んになる一方で、イギリスの中に溜まる不満がさらなる戦争へとイギリス自身を駆り立てていきます。

アロー戦争(第二次アヘン戦争)

アロー号事件

アヘン戦争で中国の港を開港させたのにもかかわらず、期待に反してイギリスの綿織物は全く売れませんでした。そのためイギリスの綿織物の産地・ランカシャーは深刻な不況に見舞われます。

イギリスはアヘン戦争での権益に飽き足らず、より広大な中国マーケットを開拓しようとします。そのきっかけとなったのがアロー号事件でした。

イギリス人船長に率いられたアロー号に突如、清朝の役人が乗り込んできて、船員を監禁、イギリス国旗をおろしてしまった事件です。しかし中国側は国旗など掲げられていなかったと主張し、その真相は現在でもわかっていません。

この事件を口実にイギリスはフランスを誘って清朝に戦争を仕掛けます。英仏連合軍は広州を占領、天津に迫ります。さらにアメリカとロシアを誘って、南京条約改正を強く迫ります。

当時の清朝は太平天国の乱への対応でいっぱいいっぱいで、外国と戦争を戦う余裕はありませんでした。清朝は屈服を余儀なくされ、1858年6月にロシア、アメリカ、イギリス、フランスの順に個別に天津条約が結ばれました。

天津条約の締結

天津条約の内容は、

  • 外国公使の北京駐在を認めること
  • 開放する港を増やすこと
  • キリスト教布教の公認
  • 賠償金の支払い
  • 今後公文書に「夷」の文字を使わないこと
  • アヘン貿易の合法化(以後、アヘンは洋薬と呼ばれる)

でした。ところが清朝はこの条約の批准をためらいます。そこで英仏連合軍は戦争を再開、徹底的な略奪によって清朝を再び屈服させます。この中で破壊されたのがかの有名な円明園です。アロー号事件に始まるこの戦争をアロー戦争もしくは第二次アヘン戦争と言います。

北京条約の締結

アロー戦争(第二次アヘン戦争)での講和条約・北京条約では

  • 天津を開放すること
  • 賠償金を増額すること
  • イギリスに対して香港島対岸の九龍半島の一部を割譲すること

などが決められました。

現代中国の歴史叙述とアヘン戦争

「半植民地化」の幕開けとしてのアヘン戦争

清朝の中でアヘン戦争は中国半植民地化の幕開けと考えられました。アヘン戦争を通じて、西洋列強から不平等条約を押しつけられたからです。実際、南京条約は外国が中国人民にはめた最初の首枷となりました。これにより西洋列強による中国の主権剥奪が始まりました。

毛沢東はのちの時代、自らの論文の中でアヘン戦争について

国内外に対する長期の英雄的な闘争を開始した

と評価しました。この論文では、アヘン戦争を契機にして中国が半植民地、反封建主義化したことが主張されています。毛沢東はアヘン戦争をきっかけとして中国が世界の中心から周辺へと滑り落ちたと理解しました。この頃から中国では帝国主義と封建主義とが結託し始めたと語られるようになったのです。

西洋中心主義的ナラティブと結びついた中国共産党の歴史叙述

前述の毛沢東の歴史観ではアヘン戦争で歴史を切断しています。アヘン戦争の前には中華帝国の栄光があり、その後には屈辱の100年があるとする歴史観です。

彼の中では、100年に渡る屈辱の歴史が中国共産党による革命によって終止符が打たれたとするストーリーを語りがたいためにアヘン戦争が使われています。

毛沢東によれば、屈辱の100年間のトンネルの出口は1949年です。彼は中国共産党の革命によって、屈辱の100年に終止符が打たれたと考えています。

毛沢東の歴史観によれば、日清戦争の敗北や義和団事件、日中戦争などはアヘン戦争から始まったトンネル内部での事件であり、1949年の中国共産党による解放へと向かって語られる事件たちです。

この毛沢東の歴史観は中国共産党が1949年を祝福するために歴史をスムーズに並べる歴史観に通じるところがあります。ウェスタンインパクトのおかげで中国が目を覚ましたとする西洋中心主義的な中国観が奇妙にも現在の中国共産党の歴史観に結びついてしまいました。

当時の清朝の官僚たちはどう考えていたか?

アヘン戦争当時の中国人は上で紹介したような毛沢東の歴史観にはそぐわない考え方をしていました。清朝の官僚たちはアヘン戦争を国家の存亡がかかった大事件だとは考えていなかったのです。

中国の長い歴史の中で異民族が中国人を屈服させる経験は多くありました。しかし、その異民族もほとんどが中華文明の中に取り込まれてしまいました。この歴史的事実が中国人の誇りであり、プライドです。この歴史的事実は中国が道徳的、文化的に優越しているとする中華思想を支える重要な根拠です。そのためイギリスの侵略されても危機感はありませんでした。

実際に、清朝は南京条約が結ばれてから、海賊をイギリス海軍を利用して取締りに当たらせていたとする研究もあり、必ずしも中国が完全に西洋に征服されたわけではありませんでした。中国人の根底をウェスタンインパクトが崩したわけではなかったのは興味深い事実です。

アヘン戦争によって衝撃を受けたのはむしろ日本であったかもしれません。日本の手本だった清が無残にも西洋に負けたように映ったからです。日本人エリートは大きな危機意識を持つようになります。ここには中華の周辺と中華そのものにいた人の意識の違いを読み取ることができるでしょう。このように現在ではアヘン戦争がきっかけとなり中国の近代が始まったとする見方を鵜呑みにする必要はないのです。