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「普通」を疑う苦しみを味わおう

「普通」を疑う苦しみを味わおう

「普通」の範囲はどんどん広がっている

「普通」という言葉は僕らの周りに溢れている。コンビニが24時間空いているのも「普通」だし、スマホが使えるのも「普通」。でも、70年前にはそんなことは「普通」じゃなかった。

日本はとっても平和だ。モノは溢れている。人も優しい。便利な世の中だ。平和な社会の後押しを受けて、僕らの「普通」はどんどんレベルアップしてきた。

「普通」の範囲は時代とともに広がっているのだ。

「普通」はどこから生まれるのか

「普通」は代わり映えしない日常から生まれる。毎日、家と学校の往復。家とオフィスとの往復。生活が代わり映えしないものになる。当然、生活を構成する要素もどんどん自分にとって「普通」になっていく。代わり映えしない日常の中で「普通」が無意識的になってしまうのだ。

そんな状態で人に会ってみる。当然、自分自身はつまらない「普通」の生活をしているので他の人がどんな生活をしているのかが気になる。生活を比較する。

はっきり言って、毎日毎日、新しい発見にあふれている人なんていない。「普通」の生活を送っている人が大半だ。「普通」の生活を送っている人たちが会ってみて、お互いに生活の比較をすることになる。

するとどうだろう。「普通」の生活が比較されることによって、より「普通」なことが見つかるのだ。そうして世間の中で「普通」が「社会的」なものになっていく。「社会化」された「普通」は世間的に「常識」になる。

「常識」は背後に大衆の「普通でしょw」という暗黙知を孕みながら、社会の中に埋まっていくことになる。自分たちが生み出した「普通」に結果的に人は振り回されることになる。

「普通」を知って、「普通」を捨てる

人は「普通の人生なんていやだ」と思う。それでも、なんとなく社会の中の「普通」が気になってしまう。結局、自分、普通だな。閉塞感を持った人は多い。そもそも「普通の人生なんていやだ」というフレーズ自体が極めて大衆的で「普通」なんだけどね。

でも本気で他の人がやらないことをやる人生にしたいと思うのなら、頑張らないといけない。特にこの国ではこれまで巧妙に「普通」の人生が整備されてきた。そのレールからわざわざ降りるのだ。当然、大変なことが多い。

その中でも一番大変なことは何だろうか。それは「普通」を気にしないようにしないといけないということだ。「普通」なんて概念は幻想。どこにも存在しない。しかし、みんな「普通」があたかもどこかにあるかのように錯覚している。存在しない「普通」を追いかけ回して勝手に疲れてしまうのだ。

「普通」探しゲームから降りないといけない。しかしその「普通」から降りるには社会に埋まっている「普通」を知らないと意味がない。知るにはどうすればいいのか。「普通」探しゲームにはまっている人々を眺めることだ。

いわゆる流行モノやトレンドに人は群がる。なぜ群がるのか。みんなが群がっていて、群がっているのが「普通」だからだ。「普通」探しゲームから降りたいと思っている人は、「普通」に群がっている人を冷笑してはいけない。そんな暇があるなら彼らが追い求めている「普通」、ここで言う流行モノやトレンドに目を向けないといけない。「普通」探しゲームから降りる唯一の方法は「普通」を作り出すことだからだ。

幻想にしか過ぎない「普通」。人は社会の中に埋まっている「普通」を追い求め、疲弊している。みんながやっているから、買っているから。人は「普通」をこよなく愛する動物らしい。

もし「普通」という言葉に嫌悪感を本気で抱くなら、上で言ったようなマインドでぜひ突き進んで欲しい。僕は突き進む人を傍目でみながら本でも読んでいたいと思う。それが僕の「普通」だから。