第一次大戦お疲れ様!パリ講和会議をめぐる国際政治について学ぼう!

第一次大戦お疲れ様!パリ講和会議をめぐる国際政治について学ぼう!

この記事では第一次世界大戦の講和条約であるパリ講和会議をめぐる国際政治について解説しています。初回の今回はパリ講和会議までの国際政治の流れとパリ講和会議はどのように進んだのかを解説していきます。

パリ講和会議は2019年でちょうど100年。今回は歴史を動かす一大イベントとなったパリ講和会議を学べば激動する現在の国際政治の源流が見えてくるかも!?

平和への道のり

まず第一次世界大戦が進行する中で国際政治に大きな影響を及ぼした三つの帝国の崩壊について見ていきます。

三つの帝国の崩壊

パリ講和会議を考える上で重要なのが3つの帝国が崩壊したこと。三つの帝国とはロシア帝国、ハプスブルク(オーストリア)帝国、ドイツ帝国です。

これらの大国は1000年以上、ヨーロッパの大陸秩序を作ってきました。しかし、帝国が崩壊するとその周辺地域で不安定が生まれる傾向にあります。その点で帝国の崩壊はそれまでの国際秩序が壊れていく可能性が高い点で注目する事象と言えるでしょう。

ロシア帝国の崩壊

まずロシア帝国の崩壊過程について確認していきましょう。1917年3月15日に皇帝ニコライ2世が退位し、ロマノフ王朝が終焉を迎えます。代わりに政権を取ったのがボリシェビキでした。1917年11月7日にボリシェビキ政権が成立します。

ボリシェビキとは最も過激な共産主義者であり、革命時には国内での支持率がたった2%しかありませんでした。国内基盤に乏しいボリシェビキは権力が奪われることを恐れた旧ロマノフ王朝軍と内乱を戦うことになります。

内戦と同時に第一次世界大戦を戦うことは不可能なので、1918年3月3日にドイツとブレスト=リトフスク条約を結びます。ロシアで起きた共産主義革命が自国にも波及することを恐れた西洋諸国は1918年7月2日にロシアに対して革命干渉戦争を始めます。

しかし、革命干渉戦争はより戦略的な観点から捉えることができます。ブレスト=リフトリスク条約によってドイツは戦勝国となり、東部国境に配属されていた軍隊を西部戦線に結集させていました。

そのためイギリスとフランスは苦境に陥ります。そこでロシアに干渉戦争を行うことでドイツ軍を分散させようとしたことになります。

ここで大きな争点となっていたのがシベリア問題でした。当時、チェコを中心とした白軍(ロマノフ王朝側軍隊)がシベリア送りになる問題が発生していました。この問題を解決するために連合国側が介入します。1918年8月2日には日本、翌日にはアメリカが出兵します。

日本はシベリア戦線でロシアと戦うことになりました。しかし、日本の意図はチェコ兵を助けるのとは別のところにありました。

実は日本はシベリア出兵を満州の実効支配の足がかりにしようとしていたのです。これを最も警戒していたのがアメリカでした。

その結果、シベリアにはアメリカと日本が一緒に出兵することになりました。現在では、この事件が日米戦争の起源とも考えられています。

ドイツ帝国の崩壊

続いてドイツがどう崩壊していったのかを確認していきます。

第一次世界大戦以前から皇帝・ヴィルヘルム2世による親政が行われていました。しかし、ヴィルヘルム2世は長引く戦争に嫌気がさし、国内でも反戦運動が高まっていました。

1918年10月28日にはドイツ帝国議会で憲法改正が行われ、11月9日には皇帝ヴェルヘルム2世退位が退位します。これでドイツ帝国は終了します。しかも11月10日にはヴィルヘルム2世がオランダへと亡命してしまいます。

これによりドイツは国内の主権者がいなくなってしまいます。一応、暫定政府ができますが、この暫定政府には統治をする権利がないので、軍隊さえ動かすことができません。

そのため社会民主党を中心とした暫定政権は休戦協定を結ぶことになりました。結果、パリ講和会議ではドイツがすべて悪いという結果となります。この時のドイツ国民の不満がヒトラーを生み出すことになります。

オーストラリア帝国の崩壊

最後にオーストリア帝国の崩壊について見ていきましょう。

オーストリアは多民族国家。なんとかバランスを取っていましたが、戦争を経る中でナショナリズムが勃興し始めます。ドイツ民族以外の人たちが(スラブ人とチェコ人)はオーストリアの中で不満を持ち、国家建設への運動が盛り上がり始めました。

1918年10月28日、帝国領域内のチェコスロバキアで独立宣言が出されます。11月14日にはマサリクが大統領に任命されました。

12月1日にはセルビア・クロアチア・スロベニアが独立を宣言し、ハプスブルク帝国は解体していきました。

崩壊後のドイツ

ここでは崩壊した後のドイツの状況を確認していきましょう。国際秩序に与えた影響の観点から考えて、崩壊した三つの帝国の中で最も重要だったのがドイツだからです。

1919年11月9日にドイツ帝国は崩壊します。暫定政府を運営する社会民主党・独立社会民主党は厭戦気分が高まる国民の空気を認識していました。

当時影響力を増していたウィルソン大統領の「14カ条の宣言」に基づき、11月11日に休戦協定に調印しました。この過程でドイツ皇帝から政党へと政治権力が移行する「ドイツ革命」が発生したことになります。

しかし問題なのがこの暫定政権に政治的な正統性がないこと。国内の右派からは暫定政府が休戦協定を結んだことへ批判が集まっていました。暫定政権は国民の「裏切り者」であり、彼らのせいで「敗戦国」になったとの認識が広がりました。

一方のイギリスでは、1918年12月に総選挙が行われました。この選挙でイギリス国民は戦争の被害を考慮して、ドイツ人から多大な賠償金を得ることを強く要求するようになります。この選挙がヴェルサイユ条約でドイツに対して厳しい姿勢を取る理由となりました。

パリ講和会議の開幕

パリ講和会議が始まる直前まで悩んでいたのがドイツでした。ドイツ政府は代表を誰にするのかをめぐって非常に難しい判断を迫られていたからです。主権者・ヴィルヘルム2世が亡命したために正当性のある交渉人が不在でした。

しかもドイツ国民の中には「負けていない」との認識が強く、どのような交渉をすれば自国民に納得してもらえるのか頭を抱えることになります。ドイツ国民はソ連に勝ち、国土も荒廃していなかったため勝ったと信じ切っていたからです。

しかし、パリ講和会議を通じて他の諸国はドイツを悪者に仕立てるしかありませんでした。米英仏のどの国もドイツを徹底的に叩くことしか頭にありません。

ついに第一次世界大戦の講和会議・パリ講和会議が始まりました。参加したのは戦勝国側の27カ国。敗戦国側は招かれませんでした。勝者による平和です。

会議における最高協議期間は「五大国理事会」米、英、仏、伊、日の五大国の首相(大統領)と外相(国務長官)から構成されました。この理事会は1月13日に始まり、3月まで続きました。

しかし、「五大国理事会」は早々にうまく機能しなくなります。なぜか。それは日本が大きな責任を負っています。

日本は大規模な国際会議に参加するのがパリ講和会議で初めてでした。そのためどのように議論をし、まとめればいいのか全くわからなりません。しかも、パリ講和会議は初めて英語が使われた国際会議。国際派の外交官でさえ語学力が足りず、会議の流れについていくことができません。結局、日本の外交官は会議でほとんど一言もしゃべることができませんでした。

これを見たフランスのクレマンソーは大いに怒ったとのこと。ついには日本を外して四カ国で合意することを試みます。

日本外交官のパリ講和会議への認識

その中でも吉田茂は世界を動かすのは英米との認識を深め、英米と協調する重要性をひしひしと感じたと言います。

一方の近衛文麿は英米は偽善としてアジア諸国との協力を優先すべきと考えるようになります。この経験を元に書かれた論文で近衛は英米本位の平和主義を壊すことが主張されました。

日本はようやく会議終盤になり人種差別撤廃条約を提案します。当初、英米は賛成するものの最終的には反対します。イギリスはオーストラリアからの強い反対がなされ、アメリカは黒人への隔離政策が行われていたから。

いつまでも差別され続けるだけの日本認識が激しく燃え上がるようになります。日本が国際社会に対して厳しい姿勢をするようになった。

この論文は多くの軍人によって読まれ、英米に従属してはならないと反英米の機運が日本軍の中に生まれる契機になったと言われます。

会議は躍りながらも進む

日本側の失態や小国の領土要求などが続き、講和会議は前進しません。

2月になるとアメリカのウィルソン大統領やイギリスのロイド=ジョージ首相は、国内問題が山積していることを考慮して、一時的に帰国してしまいます。

会議が順調に進行し始めたには、日本を排除した四国理事会が始まる3月以降のことであった。ここでは米英仏伊の「四大国」の首脳が排他的に講和条約の草案を作成し始めます。

さらには重要な合意形成は、イギリス、フランス、アメリカの「三大国」によってまとめられるなどチグハグな議会運営が続きました。

ここまでパリ講和会議までの国際政治の流れとパリ講和会議の流れを見てきました。次の記事では実際にどのようなことが条約に盛り込まれたのかを確認していきたいと思います。