外交戦略は面白い!パリ講和会議で各国は何を狙ったのか?

外交戦略は面白い!パリ講和会議で各国は何を狙ったのか?

この記事ではパリ講和会議の場で各国が何を考えていたのかについて解説しています。パリ講和会議を例に外交交渉でそれぞれの国が何を考え、どのように行動したのかを検討していきます。

それぞれの国が何を狙って行動しているのかを観察すれば、その後の世界がどうなっていくのかがある程度予測できるようになります。

パリ講和会議における外交戦略

イギリスの外交戦略ー「安定」の模索

イギリス政府はヨーロッパの地域的な安定を確立することでした。そのためには大陸ヨーロッパで安定的な国際システムが形成されなくてはなりません。その方法として伝統的な勢力均衡で各国のパワーバランスを取ろうとします。

そのためイギリスは戦後世界ではパワーバランスを崩しかねないフランス及びアメリカの影響力の拡大を懸念していました。

よってイギリスの立場は対独強硬なフランス政府と対独協調的なアメリカ政府の間にありました。これは伝統的なイギリスの外交戦略です。イギリスは戦争が集結すると勝者が過大な利益を得ないよう警告し、敗者が過剰に弱体化することを防ごうとします。これが勢力均衡的な発想です。

しかもフランスとアメリカは長年対立関係にありました。イギリスは2国の仲をとり持ち、地域の安定を模索します。またドイツに対しては賠償金を課す一方で、ドイツが戦後の経済復興が可能となるような提案を行いました。

パリ講和会議でイギリス代表として交渉したのがデヴィッド・ロイド=ジョージ(1863年〜1945年)。

デヴィッド・ロイド=ジョージ(1863年〜1945年)

1916年に陸相となったロイド=ジョージはアスキス内閣の戦争指導を厳しく批判し、その後、自ら保守・自由両党の連立政権を組閣。1916年から1922年までの間、首相を務めました。パリ講和会議では米・ウィルソン大統領、仏・クレマンソー首相とともに重要な役割を果たします。

フランスの外交戦略ー「安全」の模索

フランスはアメリカやイギリスとは異なり、唯一ドイツによる侵略を経験していました。そのため国土は荒廃し、農業や産業が壊滅的状況となりました。

よってフランスはドイツから多額の賠償金を求めざるを得なくなります。フランスは自国の安全に対してこれでもかと拘ります。

その背景にはドイツのフランスに対する優位性がありました。ドイツは敗戦したもののフランスよりも人口でも工業力でもまさっていたからです。

ドイツの強大な国力を前にフランスはイギリスとアメリカ、ソ連との協力によって安全保障を確立する必要がありました。

中でもロシアとは伝統的な同盟関係にあり、ドイツに対して東西から圧迫できるため非常に戦略的に重要な国でした。しかし、そのロシアは革命を通じて共産主義国家となったため、協力できる相手ではありません。

しかし、イギリスやアメリカが深く大陸ヨーロッパに関与することも嫌ったフランスはなんとしても賠償金等によってドイツを弱体化する必要がありました。

パリ講和会議でフランスを率いたのがジョルジュ=クレマンソー(1841年〜1929年)。

ジョルジュ=クレマンソー
(1841年〜1929年)

パリ講和会議の際には77歳となっていたクレマンソー。クレマンソーはドイツが平和的な共和国に変わったことやウィルソンの理想主義的な構想にも信頼をおかずリアリスティックに安全を求めていきました。

クレマンソーは顧問・ラルデューの強い主張もあり、ラインラントをドイツから切り離す構想を提案します。ラインラントはこれまでドイツとフランスが奪い合ってきた戦略的に重要な場所です。ラインラントは平野であり、ドイツの手に渡ればフランスにそのまま進行できることになります。ここの帰属次第で戦略が大きく変わってくるのです。

ラインラントはカトリックであり、ケルト人の系譜のある自由主義的な地域。これはゲルマン人系でプロテスタントで専制的なプロイセンドイツとは大きく異なります。したがって、民族自決と民主主義の防衛の観点から、ラインラントを切り離して独立国とすることが重要との考えでした。

しかしながら、この提案は英米の強い反対から挫折します。英米両国ともドイツを分解することは新しい戦争の原因になると考えたからです。

ラインラント独立を果たせなかった代わりにフランスは英米に同盟を結ぶことを要求します。しかし、米英は国内世論からの反発に遭い、フランスとの安保条約は結べません。

結局、フランスとしてはラインラントをなんとしてもドイツから切り離さなければならないので、軍事的に占領します。これが新たな紛争の火種になっていきます。

アメリカの外交戦略ー「民主的平和」の模索

アメリカは戦後の国際秩序を作る普遍主義的な解決法を模索しました。その結果、国際連盟を設立することに多大なエネルギーを注ぐことになります。

そこでアメリカは民主平和論を掲げ、民主主義を広めることで世界平和を作り出そうとしました。ウィルソンは紛争を文明的な手段で解決することができると考え、子細な解決手段に関しては関心を持ちませんでした。

結局、国際連盟以外の項目については大幅に英米両国に譲歩せざるを得ず、国内議会からの批判も強いものとなりました。ウィルソンが声高に叫んでいた民族自決も実現からは程遠く、逆にヴェルサイユ条約ではフランスとイギリスが植民地を増やす結果となりました。

アメリカはヨーロッパ国際政治の現実を無視し、ウィルソンの「理論」にすべての現実を無理に当てはめようとしました。その結果、多くの問題が生じたことになります。

ウッドロー=ウィルソン
(1856年〜1924年)

ウッドロー=ウィルソン(1856年〜1924年)大統領は第28代アメリカ大統領であり、1902年から08年までプリンストン大学の総長を務めた政治学者。理想主義的な「民主主義のための平和」を掲げ、国際連盟創設に尽力するものの国内の孤立主義者から激しい反発を得ます。ヴェルサイユ条約の上院での批准に失敗。国際連盟にも加盟できませんでした。

まとめ

以上のように国際社会が新しい秩序を作ろうとしてもやはりそれぞれの国には思惑があり、その思惑が絡み合って外交交渉が進められます。各国が置かれた立場に立って状況を理解しなければきっと相手の出方を見誤るでしょう。