中世の日本の占いについてがっつりまとめました

中世の日本の占いについてがっつりまとめました

中世日本における占いの浸透とその背景の考察

はじめに

本稿は、中世における占いの浸透とその背景の考察を論じるものである。中世は、本項では鎌倉時代初期から室町時代、戦国時代の黎明期までを指す。中世の人々にとって、占いは自らの意思決定に重大な影響を及ぼすものであった。中でも、中世日本の占いは陰陽道と易学を中心に展開したと言える。以下では、まず中世日本における占いと陰陽道の立ち位置を見る。その後、中国から流入した易が担った役割を述べる。その過程では、易学の学習拠点になった足利学校についても触れる。最後に、中世の人々が占いを信じた理由を現代との比較を交え、考察する。

陰陽道を中心とした中世初期における占い

中世日本において「占い」は人々と密接に関わっていた。方違えの風習は占いが生活に浸透したことを示している。方違えは主に公家に見られる風習で、目的地に向かう際、その目的地の方角の占いによって運勢が悪いものだと、別方向へと出発する。別の場所で一泊後、元の目的地に向かう。その中でも、中世初期の占いの中心は陰陽道にあった。陰陽道の占い師=陰陽師がその担い手であった。陰陽師は宮廷お抱えの占い師として、占いを通じて政治的な意思決定にも影響を及ぼした。中でも、公家に対して、暦を作成し、吉日を提示していたことは、とりわけ重要である。陰陽師は暦を読むことによって、日毎の運勢を占っていた。陰陽師の役割を抽象化すれば、情報を生み出し、そこに付加価値を見出していたと言える。陰陽道の他にも亀卜や夢占いなど、様々な占いが存在しており、政治の場面から日常生活まで、中世日本では幅広い場面で活用されていたのだ。

易の流入、反発、そして定着

 中世日本の占いに大きな影響をもたらしたのが易である。中国から流入した易は当時の日本にとって最新の占いであった。『易経』として流入した易占は世界を64に分類し、説明を試みる。しかし、日本社会にとって異国からの占いは容易に受け入れられるものではなかった。少なからず、易経への反発があったのである。『聾盲記』永正17年(1520)正月27日条はこのことを端的に示している。その一部を抜粋する。「…惣じて易は、損は十、得は六と云々。大概罰を蒙る也。桃源も易の罰にて卒すと云々。(中略)建仁寺の月舟もこの者(=一栢、鎌倉で易を学んでいた僧)に易を受く也。受くる間に越前に寺炎上する也」
(カッコ内引用者)前半部分では易から得られるのは得よりも損失の方が大きいと述べられ、後半部分では易を学んでいた人物に不利益が生じたことが述べられている。比較的同質性が高い日本社会の中で異文化は円滑には受け入れられなかったのだ。平安時代から鎌倉時代中期までの易は受難の時代であったと言える。しかし、鎌倉時代末になるとその潮目は変わる。僧の間で中国留学が盛んになると、流入初期には下火であった易がより積極的に社会に定着することになる。特に禅宗寺院での易学学習の隆盛は先述した中国留学から帰国した
禅宗僧によるものが大きい。

易学を学習することで得られるもの

鎌倉時代末に盛んになった易学の学習であるが、人々は易を通じて何を学んだのであろうか。再度の指摘になるが、易は64に世界を分類し、その数の組み合わせによって世界を分類する。森羅万象が数字に置換可能であり、結果として、世界を説明できるとする。これは、易を学習することで数学的な素養を育めることを意味する。易から発展した易占もまた、暦に基づいて、占いを行なっていた。そこでは、閏月や月食、日食の観測を絡めながら運勢が判断されていた。結果的に、易経や易占を通じて、数学や天文学といった科学的合理性の萌芽がみられた。非科学的であると言われる占いから科学的合理性が導き出されるのは、逆説的である。しかし、その合理性が、日本における易の社会的な地位をもたらしたと言える。易占が平安時代には下火で、戦国時代へと向かう中で広まった背景には、現実的な意思決定が求められる武家層に親和性が高かったことが考えられる。一方で、公家の中には易学への不信感は平安時代より残存したままであった。具体的には『易経』は50歳以前には読むべきではないとの言説が存在したのである。(菅原 2011,pp.221)これが足利という京から地理的に離れた場所で、儒教、そして易学教育のハブが隆盛したこととは無関係ではない。

足利学校の「建設」と易学

 易学は禅宗寺院を中心に学ばれていたが、中でも足利学校は、その中心的な役割を果たした。以下、足利学校の黎明から、その教育システム、功績までを述べる。鎌倉時代が終了し、室町時代に入ると政治的中心は京都に移り、関東地方は関東管領による統治が行われていた。その中で、足利学校にとって、上杉兼実の関東管領就任はその教育的役割が拡大していく大きな契機になった。
 鎌倉時代の終了に伴って、鎌倉地域は荒廃が進んでいた。鎌倉地域の学問的な中心は、現在の神奈川県横浜市にある金沢文庫であった。上杉兼実は関東管領として自らが実質的に管理していた金沢文庫から足利学校へと多くの蔵書を寄進した。これによって足利学校に学問環境が整備された。足利学校自体は平安時代の文人・小野篁によって創設されたと言われるが、実質的に足利学校を「建設」したのは上杉兼実と言える。足利学校の特徴をその教育内容と学校システムの二つの側面から述べていきたい。まずはその教育内容である。足利学校はその方針として、儒学、易学を教育内容の最優先に置いた。足利学校の初代庠主、すなわち、校長には僧の快元が就任した。快元は易学に詳しく、彼が庠主に就任することで、足利学校の儒学優先の方針は明確になる。その方針は『学規三条』の中にも見られる。その一条の一部を抜粋する。「三註・四書・六経・列・
荘・老・史記・文選外、於学校不可講之段、為旧規之上者、今更不及禁之、…」このように足利学校では儒学以外の学問が原則禁止されていたのである。続いて、学校システムの側面を述べていく。足利学校では、学習環境の整備に相当の注意を払っていたことが伺える。足利学校には全国から様々な階層の生徒が集合した。生徒間に見られる階層差は学問や議論をする上で障壁になる考えられており、生徒間での立場の平等化が図られたのである。そのために、足利学校入学者には剃髪と学徒名の付与が課せられていた。龍派禅珠の『寒松稿』を一部抜粋する。「大凡天下間、志於学者入庠門、則不分僧俗、不論貴賎、題学徒之名字於僧籍、以為吾門弟子、…」とある。身分の高低を水平化して、純粋に学問に取り組んでほしいとする運営側の意図が見える。また、易の当時の社会的な地位も見逃せない。先述の通り、易は当時、「迷信」であるとする言説が根強く、学習者にとって易を学ぶことは社会の中で高く評価されるものとは言い難い側面があった。剃髪と学徒名を与えることによって、世間からの隔絶を担保し、結果的に俗世界で言われる易を忌避する迷信から自由になることを目指したのである。

足利学校で易を学ぶ社会的意味

足利学校が隆盛したのは室町時代から戦国時代の黎明期にかけてであった。戦国時代を生き抜く中で各大名は数学や天文学、医学の知識を欲した。先述の通り、易学はそれに付随して各種の数理学的な知識を内包する。その易学が学べる足利学校は、大名にとって学習拠点として重要な地位を占めることになる。足利学校出身者が大名に仕官する例も見られ、その功績は大きい。後の時代、後北条氏や徳川家からの保護も受けた足利学校は、足利という地の利を活かし、教育拠点としての役割を果たしていたのである。

中世の人々が占いを信じた理由

 最後に、中世の人々が占いを信じた理由を現代との比較を用いながら考察する。菅原正子は中世の人々が占いを信じた理由に次の四点をあげている。一点目が天の意思と結びついた世の中の事象が占いによって人々に伝えられていたから。二点目が科学が未発達だった時代の異常現象を理解する術であったから。三点目が占いが人々の内省を促す道徳的・宗教的な役割を果たしていたから。四点目が、人という存在が常に迷いを持った存在であるから。(菅原 2011,pp.220-21)菅原は一点目と二点目の理由を分けているが、この二点は占いを信じた理由として一体化していると考えられる。科学が未発達だったがゆえに、天の意思と
現実の事象を結合させ、その判断に占いを利用したからである。その前提として、中世日本が武家を中心とした争乱の多い時代であった時代コンテクストがある。まとめると、混乱した時代背景と未発達な科学が中世日本で、占いがその存在感を高めた理由であろう。混乱した時代において、人は自分とは別の判断基準を求めることで意思決定を行なっていたのだ。最後に現代占いとの比較を試みる。現代は中世と比較して、科学が発達している。科学が発達により、占いは非科学的であると示す論文は多い。しかし、現代の生活の中に占いは深く入り込んでいる。逆説的だ。科学の成立の有無で、占いがその価値を失うことはないと考えられる。占いの浸透を中世と現代を定量的に測ることは難しい。しかし、中世人と現代人が共通する人としての特性が占いを欲すると考えられる。これは菅原が指摘した四点目の理由に紐づくと考えられるが、具体的でない。また、現代の占いは、星占い等、西洋由来の占いがその中心になっている。東洋と西洋に由来する占いの性質の違いを検討することも、中世の人々の占いへの姿勢をより浮かび上がらせることになる。以上の二点は今後の課題となろう。

参考資料、参考史料、参考文献


・講義資料 2018年12月5日 配布分
・講義資料 2018年12月12日 配布分
・『聾盲記』永正17年(1520)正月27日条、講義資料 2018年12月5日 配布分
・『学規三条』榊原家所蔵文書 彰考館所蔵、講義資料 2018年12月12日 配布分
・龍派禅珠『寒松稿』『川口市史』近世資料編Ⅲ p.175、講義資料 2018年12月12日 配布
 分
・菅原正子 (2011)『占いと中世人』、講談社現代新書
・松井豊 上瀬由美子(2007)『心理学入門コース5 社会と人間関係の心理学』、岩波書店