【要注意】本は究極の価値観の押し付けにすぎません

【要注意】本は究極の価値観の押し付けにすぎません

本稿は一介の大学生による読書論()です。

こんにちは。旅する議論屋大学生(仮)です。

なんとなく読書って大切そうだけど、読み方がわからない。そんな方も多いかと思います。本稿では読書をする際に基本となる考え方を僕なりに書きたいと思います。

私は1ヶ月で10冊程度は本を読みます。同年代の大学生と比べて、多い方なのではないでしょうか。本を読むことは色々なことを知るきっかけにもなり、本当に楽しいです。しかし、心構えがないと、楽しい読書も楽しくなくなってしまいます。

それでは、さっそく書いていきましょう。僕がお伝えしたいのはこれだ

わんつーすりー

本というものは究極の価値観の押し付けだ!!!!

デデーン

著者の考え方を読む

今この世界には数え切れないぐらいの本があります。当然、本によってその内容もいろいろです。しかし、確実に言えることがあります。それはどの本にも書いた人=著者がいるということです。著者も人間です。本の内容には当然、著者の考え方や価値観が含まれることになります。つまり、本を読むということはその本を書いた人の考え方を読んでいるということになります。

このことは、自分以外の人の考え方を知ることができるので、とても大切な体験でしょう。

しかし、本を書いた人は自分の思いや価値観を、本を通じて読者である僕らに押し付けてようとしているということも忘れてはいけません。著者が何を言っているのかを理解することはもちろん大切です。しかし、それを理解した上で、自分はどう考えるのかに目を向けることが大切だと思うのです。本の内容を読み取るのに必死になってしまっていて、結局、筆者の考え方に飲まれてしまうことが、一番やってはいけないことです。それをはたから見れば、筆者による洗脳と思われても仕方ありません。

なんだひどいじゃないか。本を書いた人だって一生懸命書いたんだ。それを「価値観の押し付け」とか「洗脳」とかだなんて。そんな声が聞こえてきそうです。

しかし、僕が思うに、本を書いた人というのは基本的に読者がどう思うのかはあまり気にかけていないのではないかと思うのです。本を書く人にとって、何より大切なのは、表現することです。自分がどう考えているのかを文字を使って表現することです。表現できれば彼らは満足なのです。

本が読者の元にくる時点で、本は書いた人の手を離れています。それを価値観の押し付けと解釈しても文句を言われる筋合いはありません。

勝手に本は積み重なっていく

本は価値観の押し付けであるということに関して、違う視点から考えてみましょう。

本には著者がいます。しかし、元を辿れば、どこにいるかもわからない人が勝手に書いて、それを「本」としてまとめて、それを僕らはありがたがって読んでいるわけです。こんな風に考えてみると、なんだか不思議です。

僕らがこんな本を作ってくださいとお願いしたわけでもないのに、本屋さんにいけば、次々と新しい本が積み上がっています。つまり、本というのは一般的な読者の僕らにとって、勝手に与えられたものなのです。このシステムを押し付けと読んでも過言ではないと思います。

もちろん、本ができる過程では編集者と著者の(正確には著者になる前段階の人)が、書きたいことと僕らがどんなものを求めているのかのすり合わせを行なってくれています。だから、一口に「押し付け」と言っても、僕ら読者に本の内容を「忖度」=気を使ってくれているということを忘れてはいけません。

本屋さんにいけば、たくさんの人がたくさんの本を出していることがわかります。僕はこれを価値観の発表大会とでも呼んでみたいと思います。

でもそのこと自体に振り回されてはいけないのです。僕らには僕らの生活があって、その生活を支えるのは自分自身で考えたことだけだと僕は思います。本は、自分で考えるきっかけをくれるという素材にしか過ぎません。本は究極の価値観の押し付けであると僕が呼ぶのはこんな理由からです。

さいごに

ふーん。なるほどと言って、このページを閉じようとした方。要注意です。この記事も僕の価値観の押し付けに過ぎません。(そのことがわかりやすいように書いたつもりです)

僕の「押し付け」に「洗脳」されないで、みなさんが立ち止まって考えるきっかけになればこの上なく僕は嬉しいです。ではでは。

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