変人っぽい大学生が本音について考えてみたので聞いてほしい。

変人っぽい大学生が本音について考えてみたので聞いてほしい。

僕は精神を病んでいるのではないかというくらいに本音について考えている。

誰かが何かを言っても本音かどうか気にしてしまう。はっきり言ってこの習性は相当に面倒臭い。いちいち人を疑っている節があるからだ。

自分自身の本音についてもそうだ。自分から出た言葉が本音なのか気になってしまう。

社会的にこういう場面ではこういう発言をするものだという知識があるから僕は、「ありがとうございます」とか「すみません」とかいう発言をしているのではないかと思うのだ。

純粋に感謝の気持ちや謝罪の気持ちなんてないのではないかと思うのである。

そんな僕だが、ありがたいことに色々な人から、「こんな人なのではないか」というご指摘をいただくことがある。

それによると、どうも僕は少し変わっているらしい。アクが強いというべきか。

年の割には落ち着きすぎているとか就活しなさそうとか。少し遡ってみると、中学校の先生には「君は浮いているくらいがちょうどいい」なんて言われた。

中学校の先生からは性格が歪んでいるとのご指摘をいただいたこともある。さすがにこれにはキレたのだが。

その一方で、僕のことをめちゃくちゃ面白がってくれる人もいるし、人生の中でそれなりに笑いを取ってきた自信もある。

周囲の発言をまとめて一言にすると、僕は変人なのではないかと思ったりする。周りがそう思うには、思うなりの理由があるはずだ。僕の言動からにじみ出ているものが少し変なのかもしれないということである。

ちなみに僕は変人と言われることは褒め言葉だと思っている。だって変な方が面白いじゃん。

しかし、最初の本音の話と合わせてみると少しばかり話は変わってくる。というのも僕が変なのは純粋に変人だからなのではなくて、周りが面白がってくれる見せかけの変人だということなのだ。

周りの受けがいいからそのキャラを演じているのではないかという疑問が頭をもたげる。僕はピエロに過ぎないのではないか。

この疑問は常に僕を葛藤させてきた。今でも答えは出ない。そもそも答えのある問いではないのかもしれない。まあ、もし僕はピエロだったとしても周りの人が楽しんでくれるならいいのだが。

ただこれまでの人生の思想遍歴を見てみると、僕はやはりどこかメインストリームから逸脱したいという思いはあるようである。

社会のことを何も知らない中学生のころから、20歳そこそこでサラリーマンになって、そのまま還暦まで働いて死んでいくなんて嫌だと思っていたことは確かだ。生意気なガキだが、今でもその思いはあまり変わっていない。

他にも、北朝鮮に興味があると堂々と主張し、それを臆することなく発信するのも少しリスクがあるが、やってしまう。

媚びるなら死んだ方がマシだし、自分で決められないことは人生の中でどんどん減らしていった方が良いとも思っている。

これがすぐに変人と結びつくことはないかと思うが、日本という枠組みの中では少し生きづらい人間なのかも知れない。

さて、どうしてこんなことをこのタイミングで書いたのかと言えば、就活なるイベントが控えているからである。

僕はこのイベントをまたもや中学生の頃から忌み嫌ってきた。みんながみんな同じ服を来て、ビルの間を這いずり回る光景が嫌で嫌で仕方なかったからだ。

同じものがずらっと並ぶ光景をみると、僕は拒絶反応を覚える。建売の住宅が並んでいる光景などはその最たる例だ。

僕にとって建売の住宅が並んでいることと就活は全く同じ光景に見える。

大学3年を迎えるとなれば、嫌でも就活の話が耳に入ってくる。先人たちの言葉を聞けば、どうやら就活は騙し合いの様相を呈しているらしい。

皆が憧れるような企業に入るために、学生の分際でのわずかばかりの経験に装飾を施し、面接官に披露するというのである。面接官は学生の嘘を見破れるかどうかが腕の見せ所。

こんなのおかしいじゃないか。僕がなんのために勉強してきたのかと言えな純粋な知的好奇心じゃなかったのか。それを使うこともなく、大学を卒業し、生きていくのか?面接官に媚びへつらうために勉強してきたのか?

おかしい。

こんなのあんまりだ。おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい

って、少し話が逸れてしまった。なんの話をしていたんだっけ。本音で語っていたら忘れてしまったよ。

ああそうだ。本音についてだったね。ってあれ。ああ。そうか。本音ってこのことか。

変人(?)あきくんは少し本音についてわかった気がする。本音ってスラスラ出てくる。

本音って諸刃の剣だ。いつでも本音で生きていればいいってもんじゃないことも重々承知している。

大した目的もないのに本音を隠し、目先の利益を取ろうとしてしまうのが人間の性だ。そんな姑息な手段で幸せになれるならそのような生き方も一向に構わない。

でも、もしそのことを引きずり、生きていく上での重荷になるなら、いつかは決断をしないといけない。本音で生きていくことを決断しないといけない。

簡単にできたら苦労はしないと言う声が聞こえてくる。本音で生きていこうと思ったら、今あるものを捨てる覚悟をしないといけない。だから、本音で生きることは難しいんだ。

本音だけで生きていけたら本当に楽だろう。嫌で嫌でたまらない人がいたら、自分の手で抹殺できたらどんなに楽だろう。でもそれはできない。失うものが多すぎる。

唯一の希望は本音は言葉じゃなくても体現できることだ。僕はこのブログで本音を書いている…つもりだ。

でも他の人はダンスを狂ったようにするかもしれない。将棋を狂ったように指すかもしれない。人は感情を表現する方法をいくらでも持っている。極論、全ての行動には感情が伴っているのだ。感情があるところにしか本音は生まれない。

本音は一つに定義できないし、表現する方法も一つではない。

今日、少し本音についてわかった気がする。

でもまだまだ不十分だ。自分の、他者の、社会の本音に向き合う人生は続いていくんだろうなあ。