中国政治の大転換 改革開放から天安門事件までを解説

中国政治の大転換 改革開放から天安門事件までを解説

この記事では中国の改革開放政策から天安門事件までの流れを解説しています。中国は改革開放政策が始まったことで社会の様子が大転換します。以下で詳しく解説していきます。

現代化路線への転換

毛沢東路線への執着と決別

1976年に毛沢東が死去し、続いて四人組が逮捕されます。毛沢東が後継者として指名したのは華国鋒でした。

華国鋒は中央政界では無名の存在だったため、権力を保持するためには毛沢東の権威が必要でした。

華国鋒は文化大革命終了を宣言しつつ。「二つのすべて」を進めます。「二つのすべて」とは毛沢東路線の継続を意味しており、自らが毛沢東路線の後継者であると位置付けました。

華国鋒とは対照的にかつての毛沢東路線を踏み越えようとしたのが鄧小平でした。かつて四人組よって失脚した鄧小平は再び復活を果たしていました。

鄧小平はベテラン幹部の支持を受けて、毛沢東路線を支持する人を失脚させます。その最大のターゲットは華国鋒でした。

鄧小平は「実践は真理を検証する唯一の基準」にて極めて実用主義的な議論を華国鋒に対して突きつけ、華国鋒を追い詰めます。

現在の公式文献では1978年12月に開催された11期3中全会で鄧小平の改革派が勝利宣言を行います。ここでは今後の活動の中心は階級闘争ではなく、現代化であることが示されました。

1981年6月には「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」にて文化大革命は全面的に否定されました。ここでは1950年代後半からの毛沢東の指導を激しく否定する一方で毛沢東同士が偉大なマルクス主義者であり、10年に渡る文化大革命で重大な過ちを犯したとはいえ、中国革命に対する功績は過ちをはるかにしのいでいるとしました。

毛沢東を全面否定することは中国共産党がやってきた革命を全面否定することになるから、毛沢東を一定程度擁護しつつ、毛沢東とは違う路線を歩むための理論を展開する文書が必要だったことがわかります。

なおこの文書では華国鋒の「二つのすべて」も否定し、華国鋒は降格処分となります。毛沢東のオーラを身にまとうことでしか、自分の権力を維持することができなかった華国鋒。だからこそ華国鋒は過渡的な人間の域を出ず遅かれ早かれ、さるべき運命にあったのです。

1980年代における中国政治の大きな力学

旧官僚層の造反派に対する壮大な復讐劇

1976年の秋に四人組が逮捕されたのち、文革中に痛みつけられた官僚たちの復讐劇が始まりました。

文化大革命が旧官僚集団を押し流し、造反派に権力を与え、文革終了後にはその権力の地位に旧官僚集団が戻ってきた。旧官僚集団にはやられたらやり返せのメンタリティがありました。

「摘発・批判・審査」運動などを通じて、1980年代半ばまで文革中の造反派がやっつけられて、旧官僚集団が元どおりに復元されるプロセスが続きました。その中でまた多くの犠牲者が出たことは言うまでもありません。

旧官僚集団が復活しようとする大波を鄧小平は利用します。彼は胡耀邦を利用して、冤罪を晴らし、膨大な数の幹部を復職させました。

しかし、鄧小平はこの復讐の大波にただ乗っていくだけではいけないことも悟っていました。毛沢東路線の全面否定はできないからです。こうして鄧小平は改革派と保守派の二つの顔を持つことになります。

鄧小平の二つの顔ー改革派と保守派

「北京の春」の容認から「四つの基本原則」の提起へ

このころから、北京の春と呼ばれる民主化運動が盛んになります。鄧小平は一時的にこの運動を認めますが、79年3月になると、経済面での解放は進める一方で、政治面での解放は進めないとの方針を明確にしました。

ここで鄧小平は四つの基本原則を明らかにします。四つの原則とは社会主義の道、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の道、党の指導、プロレタリアート独裁を堅持するとしたものです。

この中でも最も重要なのは党の指導として、共産党の指導を否定するような政治改革は行わないと鄧小平は明言します。「北京の春」は共産党指導そのものを否定していたため、弾圧され、首謀者は逮捕されました。

これ以降の中国政治の改革は1歩進めば2歩戻るものでした。「ブルジョア自由化反対運動」や「精神汚染運動一掃」などの保守派の巻き返しが起こったからです。これに対抗するように改革派は「文化大革命を徹底的に否定する運動」や学生デモで反発しました。

文化大革命とは別路線に進まなければならないという客観的要請がありつつも、共産党による一党支配の枠組みは守らなければならないという保守的な要請もあり、文革後の中国政治は混乱しました。

指導部は新しい方向に進むと言っても何を目指せばいいのかわかりませんでした。民主主義を叫んでもその伝統は中国の過去には存在せず、中国共産党幹部にはその思想が根付いていません。1980年代の中国政治面は混迷を極め、天安門事件で政治改革はすべてストップしてしまいました。

改革・開放政策の展開

人民公社の解体

改革はまず農村から始まり、人民公社が解体されて、農業が脱集団化されました。また、農民の生産意欲を促すために生産責任制を導入します。与えられたノルマを超過して達成したら、超過した分は自由に市場で販売することが許可され、生産性が上昇しました。

企業自主権の拡大と経済特区設置

都市でも改革が始まります。その目玉が企業自主権の拡大でした。従来、社会主義の企業は何をどれくらい生産するのか、価格をどうするのか、どこに製品をうるのかの決定権を持っていませんでした。

今度の改革では、決定権を企業に渡し、企業独自の方針で経営が行われることになりました。対外経済の分野では経済特別区とか開放都市を設けて、西側諸国からの技術と資本の受け皿にしようとします。

以上のような経済の改革の結果、中国は文革とはまったく違う方向で進むようになります。改革によって人々の暮らしが急速に豊かになり、80年代のGDPは倍増し、国民所得も増加。しかし、貧富の差も拡大して、農民、都市住民の間、都市と農民の間で差が拡大します。

まず沿海地域を優先的に発展させる戦略をとったため、内陸部が取り残される形になった。地域間でも貧富の差が現れてしまいます。

改革開放政策によって中国社会の外側からの影響が直接、中国国内に持ち込まれるようになりました。

鄧小平は

窓の外側から新鮮な空気だけではなく害虫も入ってくるようになった

と述べています。

新たな思想や技術が入ってくることになり、中国市民は過去と今を比較するだけでなく、自分と他者を比較する視点を持つようになりました。中国人民は先進国には及ばない点がたくさんあることを実感し他のです。

改革開放は人々を利害関心の多様化に導きます。現在に不満を持つ人間や満足するもの、現政治体制に満足するもの、満足しないものなどなど様々な感情をもたらしました。

改革の理論的正当化ー「社会主義の初級段階」論

改革を進めれば進めるほど共産党に背徳する人々が増えたことを実感し、共産党幹部はどれくらいの改革のスピードを行うのか、どのレベルまで改革をするのかについて議論し始めます。

1989年、第13大会にて、趙紫陽から「社会主義の初級段階論」が提示されました。

生産力があまりに低いために中国は社会主義の初期段階に止まっていると主張したのです。さらにもう一度生産力を向上させるために、非社会主義的システム=マーケットメカニズムを導入することが発表されました。

この議論によって社会主義の枠組みの中で商品経済をすることが認められました。中国共産党は少々の身を削っても改革開放を続けることを目指しました。

天安門事件

天安門事件は1989年6月4日に発生しました。中国では「六四」と呼ばれます。民主化を要求する人々を人民解放軍が弾圧した事件です。犠牲者の数は今持ってはっきりしていません。

背景

事件の背景には中国政治社会が改革開放によって抱え込んだ構造的問題がありました。

急速に変化する下部構造(経済構造)とその上のある上部構造(政治構想)にズレが生じていたのです。

改革開放の中で人々の関心は多様化しました。しかし、一党独裁というシステムは多様化したニーズを汲み取って政策に反映させることはできないシステムです。広がるばかりの格差の問題や汚職、住宅価格の高騰といった問題に、学生・労働者が声を上げ始めていました。

特定の契機

これを背景に1989年特有の問題が生じていました。ここでは3つの要因をご紹介しましょう。

インフレ

1988年に価格体系の改革を行ったことで、中国ではインフレが進行していました。中国は建国以来インフレを経験しておらず、人々は生活に不安を抱えていました。政府はインフレ是正しようとして、失業者が増加、社会不安が充満していました。

党内の亀裂

共産党指導部内で改革派と保守派の対立が激化もありました。1987年から民主化運動は激しさを増しており、民主は上から与えられるのではなく、下から勝ち取るものであるとして、一党独裁を打倒することが目指されていました。

胡耀邦の「憤死」

胡耀邦が天安門事件の直前に死去したことも影響していると言われています。胡耀邦は政治局の会議中に心筋梗塞で倒れ、亡くなりました。会議で保守派の突き上げにあって憤死したと噂されたのです。

保守派の圧迫で胡耀邦が亡くなった(とされた)ことが学生たちを刺激したと言われています。

まとめ

現在、中国共産党が使っている統治術は、消費社会化戦略、スマートな弾圧、ナショナリズムの喚起の三つです。

消費社会化戦略:経済成長を通じて人々の生活、消費生活の向上を行うことで現体制からの受益者感覚を育むこと

スマートな弾圧:極端な反体制派には厳しく臨むも、そのほかには寛容な態度をとることと、反共産党の結集軸を作らせないこと、そのために最新鋭のテクノロジーを活用すること。

ナショナリズム:社会主義イデオロギーの代替物として国民意識を醸成させ、体制への忠誠心を持たせること。

現時点ではこれら三つはなかなかうまくいっていると思われます。しかし今後もうまくいくかはわかりません。

市場経済はいつまでもうまくいかないものです。経済が停滞すれば、スマートな弾圧に対する予算が確保できないかもしれない。コストの面から治安維持をできなくなったら、共産党統治は案外脆い可能性があります。

20世紀中国政治史が教えてくれるのは中国の人々は天下の風向きが変わるとそれまでの権力を簡単に見放すということです。

そのことがわかっているからこそ、習近平は締め付けを緩めません。そのことは彼自身の不安の裏返しでもあるのです。