放送の規制についてわかりやすく解説

放送の規制についてわかりやすく解説

この記事では日本における放送への規制について解説していきます。日本のテレビではどのように規制がかけられているのかを理解することは普段何気なくみているテレビをより深く理解することにつながります。一緒に勉強していきましょう。

内容規制の成立過程

日本の放送法には番組のコンテンツに対する規制が定められています。これを放送法における内容規制と言います。

この内容規制がいかに成立したのかについてみていきたいと思います。

占領期の放送法の立法過程では番組準則についてさまざまに検討が加えられました。

1946年10月にGHQによって放送制度の見直しの指示が出されます。そこでは放送制度を新憲法に合わせること、通信の民主化、現代化が目指されました。

まず放送法の改正に取り組んだのが、逓信省です。逓信省はCIE(民間情報教育局、GHQの部局)と日本政府の意向を受けて、規制を強化する内容の法案を作成します。

これに反発したのがGHQの法務局でした。1948年12月2日には法務局による修正勧告が出されました。そこでは新憲法の「表現の自由」に番組準則が合致しないことが指摘されました。

日本側はそれを受け入れ、放送法案を再作成し、1949年10月に閣議決定がされました。

1950年4月の時点で固まったものが、基本的には現在まで引き継がれています。

放送法成立直前の段階で、「公安の原則」を追加する修正が慌ただしく行われた経緯からみても、現在の放送法の番組規制準則が必ずしも一貫した考え方の中で成立したわけではありませんでした。

占領期には内容規制そのものが形成された点に加え、その後の議論の構図が形作られた点でも重要です。

規制監督機関について

これまで法律によって放送のコンテンツをいかに規制するのかを確認してきました。ここでは法律とは別に、放送を監督する規制機関がどのように成立してきたかを確認します。

規制監督機関の制度設計は占領下で二転三転します。GHQによって行政委員会による規制監督の方針が日本政府に告げられましたが、これに吉田首相は反発。その結果、行政委員会方式は一旦は放棄されます。

これにGHQは反発し、あくまで行政委員会を設置するように圧力をかけます。これを渋々受け入れ、吉田内閣は法案を修正し、行政委員会を設立します。GHQの強い意向で電波監理や放送規律は行政委員会が担当することになりました。

これにGHQは反発し、あくまで行政委員会を設置するように圧力をかけます。これを渋々受け入れ、吉田内閣は法案を修正し、行政委員会を設立します。GHQの強い意向で電波監理や放送規律は行政委員会が担当することになりました。

しかし、電波監理委員会は1952年7月に廃止されます。

吉田茂首相は、放送・電波行政の内閣のコントロールの効かない行政委員会に委ねることに抵抗しました。佐藤栄作郵政大臣も、大臣が責任をもって政策を遂行する方が望ましいとの意見を表明しました。

電波監理委員会は2年2か月で廃止され、以降、権限は郵政省へ付与されることになるのです。