圧倒的成長!アメリカの経済発展と政治の関係とは?

圧倒的成長!アメリカの経済発展と政治の関係とは?

この記事ではアメリカの経済発展が政治とどのように関係しているのかについて解説していきます。扱う年代は19世紀から20世紀にかけてです。

経済と政治の関係は切っても切り離せない関係にあります。アメリカでもそれは例に漏れません。建国以来、異常なペースで領土が増え、経済成長を果たしたアメリカですが経済が政治にはどのような影響を及ぼしたのか確認していきます。

経済発展とその条件

まずアメリカがなぜ経済発展したのか?どのような条件があったから経済発展をすることができたのかについて独立する前の時代から確認していきましょう。

独立後の経済発展

独立以前の植民地時代、アメリカは農産物などの1次産品を輸出し、工業品を本国から輸入していました。典型的な発展途上国の経済システムです。

イギリス帝国は植民地との経済活動に手厚い保護を与えました。商船が大西洋を通過する際には海軍の庇護を与え、帝国内の通商には関税をかけませんでした。

経済的には全く割りに合わないものの13植民地は独立戦争を行い、独立を果たしました。独立を果たすと経済的に自立する必要が生まれます。1812年からの米英戦争でイギリスとの対立が決定的になると、イギリスから輸入されていた民生品も輸入が難しくなり、経済建設が決定的に重要な課題となっていきました。

結果、北東部を中心に輸入代替工業が発達しました。これにより衣類や食器などの日用品が国内で作られるようになりました。軽工業が発展する傍、西部開拓が進むと西部では穀物生産や畜産が行われ、農業生産が飛躍的に上昇しました。南部は植民地時代より発展していたプランテーションによる農産物生産が経済の中心。18世紀まではインディゴやタバコなどの商品作物を奴隷を使用して生産していました。

しかし、商品作物は栽培に非常にコストがかかるため奴隷を用いて生産するのは非効率。南部のプランテーションは制度的に行き詰まりを見せるようになりました。その潮目が変えたのがイギリスでの産業革命でした。イギリスで綿花の需要が大きく伸びると商品作物を作っていた南部のプランテーションは栽培する作物を綿花にチェンジします。綿花は栽培に苦労はないものの収穫を手づみで行わなければならないため多数の奴隷が使われました。南部で奴隷制が息を吹き返したのです。これに伴いアメリカ経済の中でも綿花の栽培・輸出は大きな位置を占めるようになり、綿花は king cotton と呼ばれるほどになりました。

ここで奴隷制の話を少し。倫理的には問題あると言われる奴隷制も経済的には合理的であることが証明されています。儲かる制度だからこそ南部プランテーションもなかなか奴隷制を手放さなかったんですね。

閑話休題。イギリスでの産業革命によりアメリカの産業構造は大きく変化しました。構造転換の結果、アメリカ全体で南部と北部が相互補完するシステムとなりました。

南部が綿花を輸出し外貨を獲得。その外貨が北部の工業地帯に投資され、工業生産が増すサイクルが作られました。しかし、南部にとってこの相互補完システムは望ましいものではありませんでした。なぜなら連邦政府が北部の工業製品を守るために大きな関税をかけていたからです。南部は綿花をどんどん輸出したかったためこの高関税が目障りでした。南部の抵抗を受けて関税はやや低下しますが依然として高水準が続き、南部には不満が蓄積されます。このことは南北戦争の1つの要因になったと考えられています。

経済発展の諸条件

ここではアメリカでなぜ経済発展が可能になったのか。具体的にどのような条件がアメリカにはそろっていたのかについて確認していきます。

アメリカの経済発展には連邦政府・州政府が非常に大きな役割を果たしました。まず行ったのがインフラ整備です。インフラ整備にかかる莫大な資金は政府からの補助金が大きな割合を占めました。その中でも鉄道は東西南北の移動手段として経済発展のために大きな貢献をしました。しかしインフラ整備は北部が先行したため南部で十分なインフラが整備されるのには南北戦争後の長い時間がかかりました。そのため南部の経済発展は遅れることになりました。

続いて政府の役割として大きかったのが公教育です。19世紀半ばの経済発展を支えていたのは教育水準の高さでした。白人については当時から初等教育は完璧な水準にまで到達。読み・書き・そろばんができることは仕事をする上で非常に大切なことです。

最後は特許制度を整備したことです。アメリカの経済にはある特徴があります。それが徹底した標準化です。どの部品をどのように作るのかが全国で統一されるようなシステムを整えました。その試みを支えたのが特許制度に他なりません。特許制度によって技術を守り、公開することで誰もが互換性のある工業製品を作ることができるようになりました。行政機関が発達しなかったアメリカの中でも内務省の特許局だけは早い時期から専門家が養成されるなど充実しました。

盤石にみえるアメリカの経済発展の環境も非常に大きな弱点がありました。金融インフラが整っていなかったことです。1836年に第二合衆国銀行が廃止されると全国規模で金融の面から経済を動かす主体がいなくなります。合衆国銀行は金融政策の担い手であったからです。しかも合衆国銀行は政府の銀行。政府のお金を預ける銀行がなくなったことで連邦政府は国庫に資金をため込む他ありませんでした。その結果、市場に出回る資金量が非常に少なくなりアメリカは慢性的なデフレに苦しむことになります。統一した貨幣制度も整わなかったため各地方銀行が独自の貨幣を発行し、普段の買い物でさえ混乱が生じる始末。

金融市場が整わなかったために発展を続ける重工業部門は資金調達が困難になり、ヨーロッパからの補助金に頼るようになりました。この結果、アメリカの経済発展を支える重工業部門がヨーロッパの投資動向によって左右される脆弱なシステムが出来上がってしまいました。

南北戦争と経済構造の転換

南北の経済構造の変化

金融面での不安はあったものの北東部の重工業は順調な発展をみせ、アメリカ経済は急成長を果たします。鉄道を中心に工業化が進み、西部へとマーケットが拡大していきました。鉄鉱石の発見も経済発展を加速させる重要なファクターでした。

20世紀に入る頃にはアメリカ全土の鉄道の総延長がヨーロッパと同じ長さになり、1890年にはイギリスを抜いて鉄鋼生産量が世界一になりました。アメリカは並居る先進国を追い抜いて19世紀末には世界最大の工業国に躍り出ました。中でも南北戦争では軍需品の需要が上がり、本格的な重工業化の契機になったと考えられています。

発展する北部の一方で南部は工業面で立ち遅れました。南北戦争で戦場となり、その復興に非常に時間がかかったからです。しかも南部は南北戦争後も工業化ではなく農業重視の姿勢をとったため南北の所得格差は拡大しました。奴隷制が廃止されたものの奴隷主は解放奴隷をシェアクロッパーとして搾取し続けたため社会の公正な発展が妨げられることになりました。

工業・金融資本主義の成立

発展する経済の中で工業部門では組織が巨大化・複雑化することになります。この頃になると工業製品の販売経路が多様化し、設備投資が巨大化しました。結果的に企業の活動はそれまでと異なる傾向を見せるようになりました。

それまでは中小企業が多く経営者が直接経営に関する指示を送っていましたが、企業の巨大化によって企業の中に部門や複数の事業部ができるようになります。その結果、労働者と経営者の中間に立つ中間管理職が次々と現れるようになりました。

19世紀後半には企業の間のあり方に変化が生まれるようにもなりました。設備投資が巨大になる一方で企業は競争しなくてはなりません。競争力を確保するには製品の価格を下げざるを得ませんが、そうすると設備投資分を回収することができなくなります。すると競合する企業が価格競争によって共倒れになるリスクが浮上しました。

そのリスクを回避するために企業はお互いに協定を結び始めます。その協定の一種がカルテルです。これは最低価格を決めておくことで価格の底割れを防ごうとするもの。他にも同業他社を買収してしまうトラストも行われました。トラストによって国内には大規模な企業体が誕生しました。

企業が大きくなることで投資側の影響力も大きくなりました。大規模な投資銀行が組織され、企業の経営に影響を及ぼすようになります。

以上のような企業の変化によって独占・寡占状態になる産業が生まれ始めます。しかし、この独占・寡占状態に対してアメリカ国民は非常に反発しました。その反発に対応するために1890年にシャーマン法が整備されました。シャーマン法は世界初の独占禁止法と言われています。このシャーマン法を補完するために1914年にはFTC(連邦取引委員会)が設置されるようになり、独占・寡占状態へのチェックが行われるようになりました。

南北戦争後は金融市場が不安定化し、10年ごとに恐慌が発生するようになりました。州によって通貨流通量がまちまちであり、連邦レベルの銀行が北東部に偏在していたこともあり金融インフラが不安定だったからです。

中央銀行である国法銀行が機能不全に陥っていたため、恐慌が発生するたびに財務長官が国庫から金融政策を発動し、国債等を購入。マーケットのマネーサプライを増加させる対応をとりました。ちなみにこれほぼ違法行為です。

脆弱な金融システムを安定化させるための解決策として考案されたのが1913年に設置された連邦準備制度です。これは全国12ヵ所に連邦準備銀行を設置し、その取りまとめ役として連邦準備委員会が設置する制度です。中央銀行にすべてを任せるのではなく、地域別に銀行を作ることで独占を防ぐ狙いもありました。

そのため中央に設置された連邦準備委員会も12の銀行の規制機関としての性格を持っており、中央銀行的な性格は持っていません。これ以降、連邦準備制度が20世紀初頭まで反トラスト政策を担うようになりました。

労働者と政治

最後に経済成長を続けるアメリカの中で労働者はどのような態度をとっていたのかについて確認していきましょう。

労働運動の弱さとその要因

アメリカでは歴史的に労働運動が盛り上がらず、労働者による政党も議席を多く獲得することはありませんでした。なぜでしょうか。

まず19世紀までアメリカは慢性的な労働者不足に悩まされていました。そのため労働者に対する待遇が比較的よいものとなったため労働者の中に不満がたまりにくい構造にありました。

そもそも労働運動が盛り上がるには社会的に労働者がまとまる必要があります。まとまるためには労働者が共通の不満や要望を抱えていることが必須条件。しかしアメリカの労働者には共通の不満がありませんでした。

順調に成長する社会の中で労働者は普通に働いておけば生活できるだけではなく、貯めた資金で自らのお店を持つことができたり地主になることができたりと労働者が階層として固定化されたわけではありませんでした。

また当時のアメリカで労働者は「producer」の階層に位置付けられており、何かを生産する尊い人間として考えられていました。しかも「producer」には中小企業のオーナーなど経営者側の人間も含まれており、労働者としての階級意識がそこまで醸成されませんでした。

また人種やエスニシティの壁も労働者の団結を阻害する要因でした。白人が中心の社会の中で文化も言語も違う人々が労働者としてまとまることはできなかったのです。

労働運動と非常に親和性の高い社会主義が拒絶されたことも労働運動が発展しなかった大きな要因として考えられています。階級社会を前提とする社会主義はヨーロッパ的な思想に基づいており、そのヨーロッパから逃亡した人から成るアメリカで受け入れられるはずがありませんでした。

普通選挙権が早い段階から白人男性に付与されたことで労働者の政治への要望が比較的通りやすかったとも言われています。また二大政党制が根強いアメリカでは労働者もすでに自らの強固な支持政党があったため第3党として労働政党が進出してもそこまで支持を得られなかったこともありました。

労働運動の特徴

それでも一定程度労働運動は存在しました。熟練労働者たちが自らの待遇改善を求めて職能団体を結成するなどします。例外的にアメリカでは労働運動が好景気の際に盛り上がるという面白い現象がおきました。

しかし企業の中の労働組合の組織率は低調なまま続くなどアメリカにおける労働運動は現在でも盛り上がりを見せることなく推移しています。