米共和党はどうやってできた?理解の鍵は南北戦争!?

米共和党はどうやってできた?理解の鍵は南北戦争!?

この記事では南北戦争とそれをめぐるアメリカ国内政治について詳しく解説しています。南北戦争はアメリカ史上最大の戦争であり、それをめぐる国内政治の動きも激しいものでした。その中でも南北戦争を通じてアメリカの共和党は成立したと言っても過言ではりません。この時期のアメリカの政治を共和党に焦点を当てて理解していきましょう。

奴隷制をめぐる政治的緊張と激化

まずは南北戦争の大きな原因である奴隷制をめぐる対立について検討します。

奴隷制をめぐり南北の間には非常に大きなスタンスの違いがありました。南部にとって奴隷制とは生産手段であることに加え、社会構造の一部になっていました。それゆえ奴隷制が否定されることは南部にとって社会のありようそのものが否定されることに他なりません。南部にとって奴隷制廃止は受け入れられないものでした。しかし、北部にとって奴隷制はアメリカにそぐわない制度でした。

この南北の対立を表面化させないために連合政府は奴隷州と自由州の数を合わせておく必要がありました。しかし、「1850年の妥協」からそのバランスが徐々に崩れていきます。

1854年に提出されたキャンザス・ネブラスカ法によって南北の対立は激しさを増していきました。この法律では新しく出来る2つの準州が奴隷州になるか自由州となるのかの判断を住民投票に委ねることが決められたからです。

この法案を提出した上院議員・スティーブン=ダグラスは人民主権の考え方を持っており、住民に判断させることとしたのには彼の思想が関わっています。

新しく準州となった内の1つがミズーリ州でした。ミズーリ州はかつての「ミズーリの妥協」が定めた北緯36度以北にあり、奴隷州になることが基本的に認められていませんでした。

しかし、このキャンザス・ネブラスカ法では住民投票の結果次第でミズーリ州が奴隷州になる可能性が想定されます。「ミズーリの妥協」を反故にする内容だったのです。なぜこんな法律を提出したのか?それはダグラスが大陸横断鉄道を引くために奴隷を利用したかったからだと言われています。

これに北部の自由州は反発しますが、結果的に提出人のダグラスの思惑はあたりキャンザス・ネブラスカ法は成立しました。

もう1つ成立したキャンザス準州は人口が増加傾向にあり、準州となった直後から正式な州への昇格が目指されました。奴隷州派と自由州派の人間が大量に流入し、対立していきました。結果、キャンザスでは暴力を伴う内乱=「流血のキャンザス」にまで至ってしまいました。

キャンザス州では南部出身者により奴隷制を認める憲法案が提出され、北部出身者も独自に州憲法案を作成。奴隷制について全く異なる二つの憲法典が作られる事態になりました。

当時の大統領は奴隷制容認憲法案を支持しますが、連邦議会ではこの問題をめぐり大きな混乱となりました。結果、収拾がつかずキャンザス準州の州への格上げが棚上げとなりました。

キャンザス準州議会はこれに反発。南部各州は奴隷制は連邦議会に受け入れられないとの意識を持つようになります。

これと時を同じくして出された1857年の合衆国最高裁判決は非常に悪名高いものとして有名です。この裁判は奴隷 vs 持ち主の戦いでした。裁判では自由州に行ったことのある奴隷はその時点で奴隷ではなくなっているとの主張が奴隷側から提出されました。

これに対する結論が自由州にとって非常に衝撃的なものでした。奴隷側の訴えは認められなかったからです。しかもその理由はアメリカにおいて黒人は市民権を持つ権利がないからというもの。この判決を出した裁判官たちはほとんどが南部出身でした。

政治の場面でも司法も場面でも南北が奴隷制をめぐって対立するようになりました。

1850年代の政党再編成と共和党の登場

南北が対立を深める中、政治の世界では1850年代に転機を迎えました。それまで主要政党の地位にあったホイッグ党が消滅したからです。ホイッグ党は凝集力が弱く、大統領選挙でも1840年と1848年しか勝利することができませんでした。

当時のアメリカ政治はホイッグと民主党の二つの政党が主なアクターでした。この二つの政党は政策的に大きな違いがなく、有権者としては「民衆の政党」とのイメージが強い民主党に支持を寄せる人が多かったのです。またこの時期、アメリカ政界では新たな政治上の争点が問題になっていました。

それが排外主義です。1850年代に強烈な排外主義を主張するアメリカン党がホイッグの牙城である北東部でも議席を獲得し始めます。他にも自由党や自由土地党、リパブリカン党など新しい政党が次々と誕生しました。いずれも大きな勢力とはなりませんが、ホイッグの力が落ちていることの証明となりました。

アメリカの政党制を支えたホイッグが衰退・消滅することでこの時期はいよいよ共和政が終了に向かう時期と思われました。

そこで新たに大きなアクターとして登場したのが共和党でした。共和党に集まったのは奴隷制に反対している人たち。党が正式に奴隷制に反対するわけではありませんでしたが、西部への奴隷制の拡大を否定していました。

共和党の方針の裏には当時の憲法下では奴隷制を廃止するとの主張は不可能だったという背景がありました。また共和党の中にも奴隷制には反対しつつもすぐに廃止されると困る共和党員もいました。奴隷制には反対しても黒人に対する差別意識が強い白人は多かったからです。彼らにとって解放された奴隷が北部に移り住んでくることは悪夢でした。

結果、すぐには奴隷解放を行わないと主張する方が北部での支持拡大につながったのは皮肉でした。北部で共和党は躍進し、完全にホイッグにトドメが刺されました。

56年選挙で共和党は持続的な影響力を持つ政党であると認識され、多くの政治家、党員を取り込んでいきました。ホイッグから共和党への移行が起きると民主党もその対応に苦慮します。北部民主党は人民主権を主張しつつ共和党と融和姿勢を見せますが、南部民主党が共和党に強権的な姿勢をとっていたからです。

共和党も南部・民主党とは政治信条とはそぐわない部分が多くありました。南部のプランターが全国規模で非常に大きな政治的権益を持っていたため、本来の共和主義がプランターのせいで寡頭制になっていると認識していたからです。

このような状況もあり、南北対立がさらに強まりました。1860年大統領選挙はその南北対立を決定的なものにしました。

この時の共和党候補がかの有名なリンカーンでした。元々ホイッグの政治家であったリンカーンはイリノイ州の共和党を作る上で大きな功績がありつつも、連邦レベルの政治家としてのキャリアは貧弱なものでした。彼は卓越した雄弁の人であり、対抗馬のダグラス(キャンザス・ネブラスカ法の提唱者)と各地の討論会で激しい議論を交わします。

ダグラスも有能かつ雄弁な政治家であり、彼らの議論は互角。議論の主なテーマは奴隷制についてでした。ダークホース候補者であったリンカーンはアンチも少なく、結果的にリンカーンが共和党の大統領候補として選ばれました。

1860年選挙では南北に民主党が分裂し、これがリンカーンにとって追い風となりました。第3党が勝った州もあり、共和党に有利な選挙状況が作り出されていました。リンカーンは民主党が分裂したおかげで勝利します。リンカーンの獲得した大統領選挙人は過半数には届いていませんでしたが、北部の州を完全に取ることで勝利できました。

リンカーン勝利を受けて南部は完全に北部に見切りをつけます。北部は奴隷制を完全に拒絶したと考え、南部の7州が早々に連邦政府を脱退、南部連合を作りました。

南部連合の憲法はそれぞれの州に主権があり、奴隷制を認める以外はほぼ合衆国憲法と同じものでした。これは意図的で彼らは自分たちこそがアメリカ合衆国を作った人々の政党な後継者なんだと主張したかったとされています。

この南部の動きは連邦側からすると受け入れ難いもの。悪いこと言わないから戻っておいでと南部をなだめます。

南北戦争(The Civil War)

しかし、南北の対立は修復不能なところまでエスカレートし、ついに武力紛争までに発展していきます。

南部11州は南部連合=アメリカ連合国を結成し、北部に対抗。凄惨な戦いが繰り広げられました。4年間で死者が40万人、負傷者は50万人までになりました。この数は現在までのすべての戦争で死んだアメリカ人の合計よりも多いという凄まじい数でした。

戦闘自体は圧倒的に北部が有利な展開。南部はヨーロッパ諸国による支援に期待せざるを得ませんでした。

総力戦の展開

北部のリーダー・リンカーンは戦争が始まるとすぐに各州の州兵を連邦軍に導入しました。これは憲法上の権利でもありました。

リンカーンは国際法上では国家間戦争だけが認められているところ、海上封鎖を実行し、南部への締め付けを実行します。

志願兵も募集し、戦争は総力戦の性格を見せるようになりました。軍資金は銀行からの借入や国債の発行、所得税の設置などで賄いました。国債を発行するに当たってはそれまでの金銀兌換紙幣から不兌紙幣=グリーンバックを発行し始めます。このグリーンバックが全国に導入されると同時に国法銀行制度が導入され、全国に連邦銀行の支部ができました。

連邦政府は戦争前まで関税が徴収したことがなかったため南北戦争が連合政府の性格を大きく変えたことになります。

リンカーンは連邦の統一を強調し、奴隷制に関する主張は抑制していました。奴隷制を支持しながらも連邦に止まった州の離反を招かないようにしたためです。

戦争序盤は技術レベルの高さや兵士の練度の高さもあり、南部が健闘を見せますが北部が戦闘に本腰をいれると戦況は一変。南部の侵略へと舵を切ります。非対称的な戦争力から南北にとって戦争の目標は異なりました。

北部は南部の完全な侵略を狙う一方、南部はできるだけ対抗し北部に侵略をあきらめさせることを狙います。

両者は目的達成のためにそれぞれのリソースを投入した結果、南北戦争は世界初の総力戦とされるまでになりました。

北部は新しく開墾した土地に160エーカーまでを無償で与えるホーム=ステッド法や政府直轄領を分け与える法律(Morrill Land-Grant College )などを整備して、人心掌握にも努めました。

戦争遂行の特徴

戦争遂行には多くの事務的なコストがあり、それに対応するために連邦政府の行政機関は拡大しました。そのために連邦政府の歳出は急増しました。

これはリンカーンが独裁的に最高司令官として連合政府を動かしていたことの証左でもあります。

南北戦争を通じて軍事的にも様々な革新がなされました。精度の高いライフルが使用されたり、ガトリング砲や潜水艦が導入されたりしました。しかし、南北戦争の戦い方は戦場での合戦が中心。過去の古い戦略と新しい技術がミスマッチをした結果、多くの死傷者が出ることになります。

次第に南部連合は混乱するようになり、戦争は北部有利へと傾いていきました。