新聞の「編集権」の概念と歴史について丁寧に解説

新聞の「編集権」の概念と歴史について丁寧に解説

はじめに

ここでは編集権の概念について勉強していきます。新聞を編集するための権利=編集権をめぐって、日本の新聞では古くから対立がありました。ここでは時計の針を戻し、第二次世界大戦終戦直後にまで遡ってみたいと思います。

「編集権」の概念が大切な理由

「編集権」の概念が大切な理由は、経営と編集の関係が一定のものとして決まっていないからです。編集権を誰が持つのかに関しての具体的な取り決めがないのです。

近年でも「編集権」をめぐる問題は議論の対象です。例えば

2014年の朝日新聞第三者委員会による「報告書」によると、

「…編集機能と経営機能を分離し、編集に関する最終決定は経営に携わらない編集部門の責任者が行うようにすべきであるという考え方(「経営と編集の分離」原則)が提唱されている」との報告が上がっています。

朝日新聞第三者委員会「報告書」2014年12月22日

「編集権」は誰がどのように持つのかについては決まっていません。

国ごとのマス・メディアの「編集権」

海外

まず海外でのマスメディアでの「編集権」ついてどうなっているのかを確認してみましょう。

アメリカでは「所有権の専制」が一般的で、経営陣が編集権を握り、何を報じるのかを決定することが多くなっています。

ヨーロッパ大陸諸国などでは、「所有・経営」と「編集」を分離して、コンテンツは、編集側に委ねるケースが多くなっています。

日本

次に日本における編集権についてです。

占領期に日本新聞協会が発表した「編集権声明」によって、編集内容を決定できる者は、「経営管理者およびその委託を受けた編集管理者に限られる」とされ、経営陣が報道内容を決定することが明言されました。

しかし、編集出身者がそのまま社の役員になることが慣例化し、編集と経営は分離されないのが実態でした。

以下では、GHQによる占領期(1945年〜1951年)にかけて「編集権」が成立するにあたり、誰がどのように関与したのかについて検証していきましょう。

占領初期の状況

太平洋戦争終結直後から、日本のマスメディアでは経営陣の戦争責任を追求し、社内の民主化を要求する運動が始まりました。ここでは資本と経営の分離が目指されたのです。

日本側の自主的な動きに加え、1945年9月、GHQは報道機関の民主化に向けて「プレス・コード」をはじめとする指令を発出しました。

このような状況の中で各新聞社がどのような行動をとったのでしょうか。

朝日新聞

朝日新聞は1945年10月、編集部会長会が中心になって、経営陣退陣を求める運動が起き、社長・会長の退任、「従業員の総意を反映する機関」の設立で合意しました。

時事通信社

1945年11月に創設され、「政府と大資本」から独立して、報道の自由を確保する必要があるとして、社員の共同責任において運営を図るとする創立趣意書を採択しました。

読売新聞社

正力松太郎社長の辞任を求めた従業員の闘争(第一次読売争議)が、編集・経営の両面を労働者が掌握する生産管理闘争になりました。1945年12月に会社側が協定覚書を従業員組合と結ぶことで、終結します。

「社長と従業員代表者とをもって組織する経営協議会を設置し、編集及び業務に関する重要事項を協議する」として経営の中に編集権を取り込もうとした。

しかし、従業員による株式取得は進みませんでした。

GHQの基本的な姿勢

GHQはメディアの編集内容は所有者・経営者の意向に即して決められるのが原則だとする方針をとりました。しかし、戦時中の新聞を改革する必要性から、経営側と労働組合側からなる経営協議会が編集方針を決定するにあたり、重要な役割を担うことを容認しました。

その中でメディア指導を担当するCIE(民間情報教育局)新聞課は表向き、日本のメディアの自主性に任せるとの見解を提供したのです。

読売争議と「編集権」概念の浸透

読売新聞の第二次争議

GHQは左傾化した読売新聞の編集方針の「是正」を狙います。これに反発した読売新聞の労働組合によって第二次労働争議に発展しました。この労働争議の中で当初の争点は編集権でしたが、結果的に争点は組合員の生活環境の改善へと移りました。

1946年5月15日の対日理事会でアメリカのアチソン代表が「アメリカは共産主義を歓迎しない」と明言しました。これを受け、CIEにも新しく保守派のニュージェント局長が就任し、経営陣が編集権を持つべきだとの立場を取り始めたのです。

この終結をきっかけにマス・メディアの労働運動は大きく転換し、「新聞単一」(共産党系の労働組合)と各新聞に属する組合員との間の軋轢が目立ち始めます。「資本と編集」の分離から企業ごとの労働条件への改善へと組合員の焦点は移ったのです。

経営陣の復活

GHQの政策転換を背景に「資本・経営・編集」の三位一体体制の回復を目指す「資本」の側が主導権を取り戻しました。

CIE新聞課も「編集権」を所有・経営者の側に有利に働くように解釈していきます。

1947年9月にメディアの関係者を集めて行なった新聞講座で、インボデンは「編集権は単に報道内容の決定を意味するだけでなく、人事や組織についての決定権を含む」という認識を提示しました。

ただしインボデンが最終的に目指していたのはあくまでも日本にアメリカ型のジャーナリズムを定着させることでした。アメリカ型のジャーナリズムとは、新興紙や地方史を育成しつつ、多数のメディアが並存して、それぞれ独自に「編集権」を持たせることで、メディアの多元性を保とうとする方針でした。

「編集権声明」の成立

日本新聞協会の対応

日本新聞協会(経営側)は編集権確立の必要性に迫られ、1947年12月の理事会でその方針を改めて確認しました。

1948年1月14日の理事会決議では「経営者ならびにその委任せる編集責任の担当者がその社の編集方針を遂行するに必要なる人事を行うことは、自由にして責任ある新聞を作成するための当然の権利である」としたのです。

GHQ側もこれに反応して「編集権」概念の明文化に向けて調整が行われました。1948年3月3日、労働課が「編集方針に関する声明」を発表しました。編集方針の決定権とその責任については、全面的に経営者に委ねる方針が取られたのです。

日本新聞協会の編集権声明によれば

新聞の経営、編集管理者は常時編集権確保に必要な手段を講ずると共に個人たると、団体たると、外部たると、内部たるとを問わずあらゆるものに対し編集権を守る義務がある。外部からの侵害に対してはあくまでこれを拒否する。また内部においても故意に報道、評論の真実公正および公表方法の適正を害しあるいは定められた編集方針に従わぬものは何人といえども編集権を侵害したものとしてこれを排除する。

日本新聞協会の編集権声明(1948年3月16日理事会決定)

学会からの批判

その一方、日本新聞協会の編集権声明には学会からの批判が寄せられました。吾妻光俊は

編集権の所在を経営者とした点は言論機関が少数経営者の独裁になる危険性がある

と指摘し、吉野源三郎は

編集権という言葉は用いないほうがいいと思う。編集方針の決定の問題としてその決定に至る委託関係の手続きを明確にすれば問題は解決する

と指摘しました。

労働組合の反応

労働組合側もこの日本新聞協会の声明に対して、反応を見せます。新聞単一は1948年5月の定期大会の声明で、「経営者が編集方針を紙面作成過程において具体化する業務上の権限であり、経営権の一部」として「編集権」を認めたのです。

「編集権声明」後のメディアの状況

「編集権声明」後のメディアは、戦後いったん追放された経営陣も元の地位に復帰し、その中でも読売新聞の正力松太郎の復帰は戦前への緩やかな回帰を印象付けるものでした。

このような状態に対して、GHQは懸念を抱いていました。寡占状態にある日本の新聞経営者が万能とも言える「編集権」を持ち、言論を支配することを心配していたのです。

このことに対して、CIE新聞課のインボデンは1949年3月に行なった新聞講座では

「いかに優れた新聞経営者がいたとしても新聞が寡占状態になるよりも多数の新聞が並存していた方がよい」

と発言し、あくまでもアメリカ型のメディア状態が理想であるとしました。

占領末期になるとインボデンの影響力も低下し、CIE新聞課と日本新聞協会との関係は断絶状態になります。日本メディアはGHQから独立していくことになるのです。

「編集権」その後

メディアが大規模な企業体へと成長する中で、「資本」の「経営・編集」への不介入といった慣行ができあがり、表立った論点になりにくくなった面があります。しかし、編集権の存在が日本のジャーナリズムのあり方を規定していることは明らかなのです。