共産主義が来た!ロシア革命について丁寧に解説!

共産主義が来た!ロシア革命について丁寧に解説!

この記事では1919年のロシア革命をめぐる政治の状況について詳しく解説していきます。ロシア革命はヨーロッパ世界に大きなインパクトをもたらしました。

ロシア革命によってソ連ができるとヨーロッパに初めて共産主義政権が生まれました。西ヨーロッパ諸国からすれば、その姿は非常に不気味でした。そのソ連ができるきっかけとなったロシア革命を詳しく解説していきましょう。

ロシア革命の衝撃

二度のロシア革命は支配者が根底から変わるもの。ロマノフ王朝が民衆によって打倒される2回の革命をロシア革命と言います。その革命は2月革命と7月革命は全く異なるものです。

2月革命は労働者や農民への戦争への過剰な負担に対しての革命。古い体制が打破されて、ロシアの場合には2月革命の後に10月革命がおきた。これが予想外のことだった。ロマノフ王朝の力の真空を埋めたのがボリシェビキであった。巧みな戦術によって10月革命によって暫定政権を打倒して、レーニンが過激なイデオロギーをぶち上げて統治を開始した。レーニンが革命を起こすためにスイスから戻ってきた。ロシア政府を葬らせるためにレーニンをスムーズにモスクワに移動させたのがドイツだった。カオス戦略。相手の国の政治が混乱していれば自国に有利になる。

「1917年」の国際変動

1917年には20世紀を大きく動かした二つの重要な出来事が生じます。その二つとは第一次世界大戦へのアメリカの参戦とロシア革命の勃発です。

この二つの出来事はヨーロッパにおける伝統的な国際体制を変容させ、また「新外交」と呼ばれるイデオロギーに基づく新しい外交をもたらすことになります。

特にソ連の出現は西ヨーロッパ社会に大きな変容をもたらします。ソ連が初めての共産主義国家としてヨーロッパの国際政治に深く関与するようになるからです。

二度のロシア革命

ここでは二度のロシア革命についてその流れや意義を確認していきましょう。1917年11月に発生した十月革命の実態は伝統的なクーデターでした。一部のボルシェビキ勢力が政府を転覆させて、自らの理念に基づく新しい政権を樹立しました。その指導者がレーニンでした。

なぜロシア革命を取り上げるのか?ロシア革命が何を意味するのか?国家の安全を考えて行動していたのが、外交がイデオロギー化していく。これまでは新教と旧教の戦いだった。合理的に国力を考えて国際政治が考えられていた。自らの正義の世界を広げようとするイデオロギー的な外交が現れるようになった。二度のロシア革命がその契機であった。

ボリシェビキ政権ができることでロシアの最大の課題は戦争を続けながら内戦をしないと行けなかった。皇帝の軍隊白軍が戦っていたところ、主権者のための軍隊である。皇帝の軍隊が戦争を戦っていたところ、皇帝がいなくなってしまったので白軍が非常に微妙な立場になる。白軍とは異なる赤軍が生まれた。人民解放軍は党の軍隊であるのと同じ。党を守るための軍隊が赤軍。ボリシェビキを守るのが役割。新しい共産党政権は国内での安定を最優先にして、戦争を落ち着かせる方向に行く。ドイツとの講和条約を結んで、同盟国との交戦を停止させようとした。内戦を戦っているからドイツはロシアを打倒したい。しかし、なんとかロシアは降伏することによってドイツとの交戦を停止させた。しかし、共産党政権はその降伏文書を受け入れられず、ドイツは戦争を続ける。

ブレスト=リトフスク講和条約

新しくボルシェビキ政権を樹立したレーニンはまずは国内での安定を最優先させて、戦争を集結させる方向へと動き始めます。そこでドイツをはじめとする枢軸四カ国に対して、レーニンは講和条約の協議を申し出ます。

しかし、ドイツはこれに応じることはしませんでした。ドイツが厳しい条件を課して、休戦協定の提案を行うと、ソヴィエト政権はそれを受け入れることができないと拒否。ドイツ軍により戦争が再開されます。

ドイツ軍はソヴィエトを制圧し、ブレスト=リトフスク条約を結び、両国は休戦します。条約の内容は1回目の提案よりもはるかに厳しいものでした。しかし、この休戦協定を受け入れたソヴィエト政権は国際体制の確立に全力を注ぎ始めます。

ロシア内戦をめぐる国際関係

ロシア内戦の勃発

ロシア国内にはボルシェビキ政権に反対する多様な勢力がいました。反体制派が軍事力により反ボルシェビキ政権の成立を目指します。

反体制派には国内勢力と外国勢力のどちらもいます。そのため国内的な勢力とボルシェビキ政権の間では内戦が勃発し、国際勢力との間にはロシア干渉戦争が始まりました。

内戦において、反ボルシェビキ勢力はイギリスの援助を受けた白軍としてソヴィエト赤軍に対抗しました。

イギリスによるロシア革命干渉戦争

外国勢力として最も積極的にソ連に干渉したのがイギリスでした。その背景には第一次世界大戦の軍事的な戦略がありました。ソ連側からドイツに対して、東部戦線を構築し、ドイツへの攻撃を再開することを狙っていたからです。

ドイツ軍が西部戦線に集中するとイギリス軍は不利になります。出来るだけ東部戦線を維持したいのがイギリスでした。

しかもイギリス国内で革命宣伝活動が頻繁になると同時に、その危険性が声高に叫ばれてもいました。

そのイギリスの中でも最もソ連干渉に積極的だったのが、陸相・ウィンストン=チャーチルでした。チャーチルは一貫した反共主義の思想を持ち、第二次世界大戦後でソ連・スターリンはチャーチルを嫌悪。「戦争挑発者」と呼びました。

さらにレーニンはチャーチルに対して

反ボルシェビキ戦争の最も強力かつ無責任な推進者

ロシアの大公たちが皆殺しになっているのを見て、彼の公爵の血が騒いだのだ

と論じています。

ソ連干渉当時のイギリス首相はロイド=ジョージ。彼はソ連干渉戦争には反対でした。苦労人であるロイド=ジョージは弱き者が権利を得るロシア革命に同情的でした。しかし閣内は干渉戦争に賛成多数。チャーチルは首相宛の書簡で次のように語っています。

休戦以来、『ドイツ国民とは平和を。ボルシェビキの専制に対しては戦争を』が私の政策であった。あなたは意図してあるいはやむを得ずかはともかくとして、それとは正反対の線を追求してきた

1918年3月、イギリスはフランスと組み、ソ連からの独立を勝ち取ったフィンランドに近いムルマンスクに上陸、反ボルシェビキ政権を擁立します。

しかし、大規模な陸軍兵力を長期に駐留させることが困難なイギリスは英軍をそこから次第に撤退させ、白軍に戦争を丸投げします。

次第に白軍は追い込まれ、ボリシェビキ政権が国際基盤を盤石なものにします。イギリスのロシア干渉戦争は失敗。多大な財政的負担を残すもイギリスは得るものがありませんでした。ソ連政府のイギリスの不信感が残りました。

ソ連の革命外交

ソヴィエトの「新外交」

ソ連外交はそれまでの西ヨーロッパの外交とは異質なものでした。ソ連は内政不干渉原則を否定し、他国へと革命を輸出することがソ連の安全であるとする外交戦略を採っていました。これを世界革命論と言います。

初期のソヴィエト指導者たちは資本主義が他のすべての場所で転覆しない限り、ロシアにおいても革命政府が存続することは不可能であると本気で信じていました。資本主義が悪であり、社会主義が善であるとの二元的論的なイデオロギーを持っていました。

そこでコミンテルン(共産主義インターナショナル)が1919年3月にモスクワに総本部を設立し、革命の輸出に本腰を入れます。

世界中にあるコミンテルンの各支部が資本主義の転覆を目指して活動を続ける中、他国政府がソヴィエト政府と国交を結ぶことは困難でした。このことは相互不信感を増幅させ、ソ連と西側諸国の関係は冷え切ったものとなりました。

ソ連は共産主義国相手には通常の外交を行っていましたが、資本主義国では共産党を外交のカウンターパートとして利用していました。これでは外交交渉がうまくいくはずがありません。

スターリンの時代に入るとそれまでの原則を見直し、積極的に一国社会主義論を唱えるようになりました。ソ連単独で社会主義を推進するもので革命の輸出はしないとする方針を示すことで資本主義国との交渉を可能なものとしました。

孤立からの脱却ーラッパロ条約

1922年4月、ジェノヴァ会議が開かれたわずか1週間後、ジェノバ近郊に面する保養地ラッパロでドイツとソヴィエトの代表が会合し、両国での友好条約を締結しました。

国際社会で孤立する二つの大国が、秘密裏に接近する点で非常な驚きを持って受け止められました。この条約でソヴィエト政府は初めて大国による政府承認を得ることができました。ヴェルサイユ体制で疎外された二つの大国の接近は、西側諸国に多大な衝撃と警戒感をもたらしました。

続いて、1924年2月にイギリス政府がソ連を承認します。マクドナルド労働党政権は正式にソ連政府を承認する

それまで西側諸国がソ連政府を承認しなかったのはコミンテルンがこれらの諸国内で革命宣伝活動をやめなかったからです。

イギリスに続いて他の大国もソ連政府を承認。唯一大国の中で最後までソ連政府を承認しなかったのはアメリカでした。

1924年にレーニンが死去するとヨシフ・スターリンが指導者となります。スターリンは国際的な孤立を回避するために世界革命の達成を二義的なものとして、ソ連の国内体制の強化と工業化を最優先課題に掲げ、積極的に他国との強調関係構築を目指すようになりました。

まとめ

ロシア革命は国際政治にも大きな影響を及ぼしました。ソ連の登場は初めての共産主義国の登場であり、その登場は西洋諸国に関係構築の難しさを思い知らせました。

ソ連は1991年に崩壊するまで国際政治の大きなアクターとして存在し続けました。ソ連外交の本質もこの記事で見ることが出来たのではないでしょうか。