「みんなと同じことはしたくない」は矛盾している

「みんなと同じことはしたくない」は矛盾している

「みんなと同じことはしたくない」という矛盾

「みんなと同じことはしたくない」とは誰しも抱いたことのある感情で、そんな感情を煽るように「みんなと同じことはするな!」と巷では言われる。

時折、ぼくも「みんなと同じことはしたくない」という感情が湧いてくる。そんな感情は起こるはずはないのに。理論上。なんでこんな感情は湧いてくるのだろうか?

どんな時にその感情は湧いてくる?

気づいたら僕も「みんなと同じ」ように大学に通っているし、「同じような」洋服を着ている。こんなことを考えると「同じことをしているな」と思ってしまう。でも、これは自分の中でおかしな視点で物事を見てしまっている時だ。

「みんなと同じこと」はできない

かといって、正面から自分の感情に向き合って見るのもいいもの。どうすれば「みんなと同じようなこと」をしないで済むのだろうと考えてみる。

今いる環境を思い浮かべる。今いる環境でみんながやるようなことをやっていれば、「みんなと同じこと」をやっていることになる。じゃあ、今いる環境から出れば「みんなと同じこと」をしていることにはならないかもしれない。でも、今度はその環境の中での「みんなと同じこと」が待っている。

例えば、大学生のうちに起業した人がいるとする。「大学生」という環境の中では「みんなと同じこと」ではない。でも、起業した人人たちの中に身を置けば、「起業した」ということは「みんなと同じこと」だ。環境を求めても、「みんなと同じこと」は待っている。

究極的にはみんな同じ人間として生きているから、「みんなと同じようなこと」をしてしまう。「みんなと同じこと」はできない。

「みんなと同じこと」という幻想

世界で全く同じものというものは存在しない。「みんなと同じこと」ができない。

でも人は「みんなと同じこと」を避けようとする。

僕を含め人は「みんなと同じこと」という「何か」に振り回されている。この「何か」は幻想にすぎない。

「みんなと同じよう」に大学に通っているってのは、確かにそうだ。でも、通っている大学も違ければ、学部だって違うはず。取っている授業だって違し、モチベーションだって違う。「みんなと同じように」大学には通っているけど、それぞれ中身は違う。

だから、「みんなと同じことはしたくない」なんて言葉は物事を上っ面だけをみた浅はかな言葉。そもそもみんな違うことをしているから。

こんなことを考えれば、「みんなと同じことはしたくない」なんて言葉がそもそも矛盾しているということがわかる。みんなと同じことなんてできないはず。理論上。

「みんなと同じだ」と感じてしまう不思議。

ぼくを含め、自分は「みんなと同じことをしている」と感じる人もいる。

そう感じる人は他人と比べている。

結局、人は他人と比較してしまうし、比較しないと生きていくモチベーションは生まれない。かといって、比較し続けるとどこかで崩壊する。

比較が成り立つには同じ性質を持ったものでないと比較ができない。比較するには自分と相手、これが比較可能なものなのか考える必要がある。

「みんな」と「自分」を比べることはできるだろうか。

答えは否。できない。「みんな」と「自分」は性質が違う。今ここにある「自分」とどこにあるかわからない概念上の「みんな」なんてどうやって比べればいいのだろうか。ぼくにはわからない。

「みんなと同じこと」をするなんて実態的には不可能なことだ。

しかも、言葉上でも不可能なことだ。

でも、人はみんなと同じことに振り回されて、生きていく。自分がやりたいことをみんなと同じことにしちゃえばいいんじゃねと思う次第。

全く社会性を帯びた人間という存在はかくもめんどくさい生き物なのだなと思う。