「人の役に立ちたいんです!」という言葉にはなんの意味もない

「人の役に立ちたいんです!」という言葉にはなんの意味もない

生来よりひねくれている人間なので「人の役に立ちたい!」という発言をする人間を信用することができません。その人自身が自分自身に対して不誠実だと思うからです。

人にはエゴがあります。自分をすごく見せたい。誰かに認めらたい。リア充のように振る舞いたい。

これは社会的な動物である人間にとって普通の感覚であり、欲求です。僕はこのような欲求を持つ人を否定することはできません。逆にとても素直な人だと思います。

上のような欲求はどんな人にも備わっている性質です。

しかし、これらの性質と「人の役に立ちたい」という表現には矛盾するところがあります。

自分のエゴを捨てて、「人の役に立ちたい」なんてことは本来、僕はできないと思うのです。それでも頑なに、「人の役に立ちたい」という人はそう発言すること自体に意味を見出しているように思います。

「人の役に立ちたい」

自分ではない誰かのために頑張る人間はとても素晴らしいです。

しかし、そのこと自体は目的にはなり得ません。

自分が活動すること。社会の中で暮らすこと。そのこと自体が誰かを助けているし、役に立っているのです。極端な話、何かをコンビニで買えば回り回って、そのコンビニの経営者の人を助けていることになっているということなのです。

人は耳障りのいい言葉を好むものです。「人に優しく」とか「人の役に立つ」とかは発言するだけでみなさんの周りの人は褒めてくれるでしょう。

「いい子だね」とかね。小さいころ学校の先生や親にそんなことを言われて育った人も多いでしょう。その成功体験を大学生になっても引きずってしまえば、上のような当たり前のことを堂々と述べる恥ずかしいことになってしまいます。

たいていの人は優しいので上のような言葉を聞いても、特にどうも思わないか、また「ウンウン」「すごいね」と言ってくれるでしょう。

僕はそんな姿をみて、笑っています。だってそんなやりとりになんの意味もないんだもん。

人の役に立ちたいという人を否定するのではなく、もう少し自己肯定感をあげてもいいんじゃないと思うのです。

どういうことかっていうと、「君もう十分に人の役に立っているよ」ということだと思うんですね。上のコンビニの例でもあるように社会の中で生きている限り、人は十分に役に立っていると思うのです。

だから、人の役に立ちたいなんて目標は小さいと思うんですよね。もっと大きく持っていいじゃないですか。自分の好きなことで人の役に立つ。ばかばか金を稼ぐ姿を見せつけて、人に夢を見させてあげる。

過度な自己犠牲は我慢によって成り立ちます。我慢した人間が他人のために頑張っても、その自己犠牲を捧げられた方は迷惑です。

我慢しながら自分のために頑張って欲しいなんて僕は全く思いません。自分が自分のために頑張って、それが回り回って他の人のためになったら、それはとっても素敵なことだと思うのです。

人の頑張りを受け取る方も罪悪感少ないし。人のために頑張ります。なんてもうやめようぜ。